巻頭言 

「分からない者」 ローマの信徒への手紙第71525

よく「自分のことをいちばんよく分かっているのは自分だから」という言い方をします。しかし、本当にそうでしょうか?「粗忽長屋」という落語には、自分が生きてるのか死んでるのかも分からない、自分というものがまったく分かっていない登場人物が出てきて笑いを誘います。落語というのは、どんな愚かな者でも、どんな滅茶苦茶な人物でも、それを否定しないという特徴があります。「落語とは人間の業の肯定である」と言った人もいます。「人間なんて、しょせんそんなもんだよ」ということです。落語を見ている私たちは、そんな馬鹿な登場人物を指さして笑います。そんな奴いるわけないと思っているから笑えるのです。しかし、落語は、実は私たちに語りかけているのです。「お前だって同じだよ。でも、それでいいじゃねえか。」と。

 聖書も同じことを言います。ローマの信徒への手紙でパウロはそのことを痛切な告白のような形で語っています。『わたしは、自分のしていることがわかりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。』と自分を顧み、『善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。』と恥じます。人間は自分の力ではどうにもできない弱い者だということを認め、その醜い自分と葛藤します。そしてパウロは『わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。』と嘆き、『だれがわたしを救ってくれるでしょうか。』と絶望に近い声をあげます。しかし、次の行で、パウロはすぐに解決を示します。『わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。』イエス様がすべてを背負って十字架にかかってくださったことで、私たちはすでに救われているのだ、だから感謝しよう、と言うのです。イエス様は十字架に付けられたその時、自分を十字架にかけた者たち、罵る者たち、あざ笑う者たちに囲まれながらこう言いました。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』この場面を読んでいる私たちは一体どこにいるでしょうか。実はイエス様が「彼ら」と言った中には、私たち一人一人も含まれているのです。私たちも自分のことを分かっていない群衆の一人なのです。その私のためにも、イエス様は執り成してくださったのです。だから感謝なのです。自分で自分が分からなくてもいいのです。神様、イエス様に感謝し、自分を映してみれば、もっとも真実に近い自分がそこにいます。「私は誰でしょう?」と神様に問いかければ、きっと「わたしの愛する者だよ」と仰ってくださるのではないでしょうか。感謝です。

高橋寛幸

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2015年8月9日  (過去メッセージのリンク)
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