巻頭言 

「御国を喜ぶ心」 マタイによる福音書610

主イエスは、「御国に行くことができますように」ではなく、「御国が来ますように」という祈りを弟子たちに教えました。どのような思いが込められているのでしょうか?

1.神の支配を受け入れる願い

聖書でいう御国とは、神の支配がある場所という意味があります。主は、「神の国は、『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国は、あなたがたの間にあるのだ。」(ルカ1721)と語っておられます。神の支配を受け入れようとする人々の間から、神の御国が築かれてゆき、その場所に、神の正しさ、聖さ、愛があります。もともと、私たちの心の中にある王座には、私たち自身が座り、自己中心に物事を判断し、行動してきたのではないでしょうか?しかし、自分の基準が周りから受け入れられなかったりする場合、イライラし、人とも衝突してしまいます。神に聞き、神に従う生き方を選び取ってゆくことは幸いです。神の支配がある場所にいてこそ、私たちの心と体は憩うことができるからです。

2.最終ゴールを見据えた生き方

私たちの五感は、もっぱら関心事のほうに向けられてゆきます。もし、私たちの興味が、地上のことばかりになると、聖書が語る霊的な話はなかなか耳に入らないものです。「御国が来ますように」と祈ることによって、私たちの心が天に向けられてゆくという効果があります。御国は私たちにとって最終ゴールです。もし、目標ゴールを見失うなら、生きる張り合いをなくしたり、燃え尽きたりする場合があります。阪神タイガースのマートン選手は、神を信じるクリスチャンとして、「野球選手が私の人生のすべてではない」と語っています。

「御国を来たらせたまえ」と祈り、神の支配を喜びながら、天に心を向けてゆく者となってゆきましょう。

2015年5月10日  (過去メッセージのリンク)
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