巻頭言 

「祈るときには」 ルカ111 マタイ658

主イエスは祈りについて弟子たちに教えています。それは、どのような神に、そして、何を祈ればいいか、という内容です。私たちは、祈るとき、どんな心の姿勢が必要なのでしょうか?

1.神との関係を求める

祈りは人間の特徴を表わす独特な行動です。ルカ福音書には、主イエスが祈りについて教えるきっかけとなったことが記されています。弟子のひとりが、祈りについて学びたいと思い、教えを求めている場面があります。おそらく、その弟子は、イエスが神に祈っている姿をじっと見て、感じたことでしょう。どうして、先生は、神に向き合う祈りの時を、そんなに深く持っていることができるのだろう?「もっと祈りを深めてゆきたい」、「祈りの豊かさを体験してゆきたい」「祈りにおいて成長してゆきたい」そんな願いを持つことはクリスチャンとして健全なことです。祈りを通して、神との交わりに飢え渇きを持ってゆくことが大切です。

2.宗教的偽善に気を付ける

主イエスは神の御前で生きる者として、人の評価や人からの報いではなく、神の御心を求めて、地上の生涯を送られました。そんな姿を見た当時の宗教指導者は、主イエスを忌々しく思い、十字架にまで追いやったのです。それを思うとき、祈る心の状態がどれだけ重要なのかを考えさせられます。人の評価や人からの報いに期待する心で、自分の立派さを誇ろうとする祈りになるなら、神の御心とはまったく逆のことをやっているということになってしまいます。神の臨在の中で、純粋な心で神の御心を求めてゆく心の姿勢が必要です。

3.神に信頼する

主は、神は父なるお方であると、私たちに紹介しています。国際社会など見てゆくと、微妙な緊張関係の中、政治家がいろんな交渉をしてゆきながら、国の利益になるように動いているということがわかります。しかし、私たちは、神と取引している緊張関係ではなく、父と子のような血を分けた親しい関係のようなものであり、そこには、利害など存在しません。神に対する信頼こそ、祈りの心です。「父なる神は、私に最善のことをしてくれる」そのような思いが根底にあってこそ、父なる神に願い求めてゆくという姿勢を保ってゆくことができます。もし、その信頼がなかったら、途端に、神につまづき、失望してしまうでしょう。これからも、神に信頼し、神がなさる最善を信じて、願い求める者になってゆきましょう。

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2015年4月12日  (過去メッセージのリンク)
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