巻頭言 

「彼らの真ん中に立ち」ルカ24:36⁻49
皆さんのこれまでの人生の中で、どんな喜びがあったでしょうか?さて、福音とは「良きおとずれ」という意味であり、キリスト教は、喜びの宗教だと言えます。イエスの十字架と復活を目撃した弟子たちは、どのような喜びを抱くことになったのでしょうか?そして、この出来事は、二千年後、日本に住む私たちにどんな影響を与えるのでしょうか?
(Ⅰ)理性を超える喜び
イエスはユダヤ当局に捕らえられ、裁判にかけられ、死罪が確定しました。そして、次の日の朝には、十字架に架かり、午後三時には、息を引き取り、夕方には、墓に葬られました。弟子たちにとっては、めまぐるしい一日であり、混乱と恐怖と緊張の心の状態だったことでしょう。そんな彼らの前に、復活の主がそのお姿を現し、彼らの真ん中に立ったのです。ところが、復活の主を見た彼らは、「恐れおののいた」と記されています。亡霊を見ているのだと思い、取り乱してパニックになりました。主イエスの復活が、人の理性で判断できる範囲を超えてしまったからです。キリストの十字架と復活の出来事は、弟子たちがそうであったように、私たちの理性をはるかに超える喜びの出来事です。
(Ⅱ)揺るがない喜び
イースターの出来事で重要なことは、主イエスが復活されたというだけでなく、信じる私たちに復活の力をお与えになるということです。命の問題が解決されたのなら、これほどの喜びはありません。しかし、喜びは、人の感情であり、安定しないということも事実です。復活のイエスが弟子たちに語った重要なことがあります。それは、イエスの十字架と復活を指し示している聖書全体を、悟らせるために弟子たちの心を開いたということです。エマオの途上にいた弟子たちがそうであったように、心開かれ、聖書を読む時、復活の主と出会うことができるのです。また寄せ集まった炭が燃え続けるように、私たちの信仰の喜びも、教会の仲間とともに、聖書を開きてゆく時、喜びを保ち続けることができます。聖書が私たち教会の土台であり、教会の真ん中にイエスがおられます。十字架による罪の贖いと、復活の希望を信じ、さらに喜びあふれる教会となってゆきましょう。



2015年4月5日  (過去メッセージのリンク)
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