巻頭言 

「十字架への道」ルカ9:21〜23

今日は棕櫚の主日と呼ばれるイエスキリストがエルサレムに入城された日です。人々はローマの圧政から救ってくれる奇跡を期待してイエスキリストを熱狂的に迎えました。しかし、一週間も経たないうちにその方を十字架上の残酷な死へと引き回すことになるのです。

 イエスキリストはエルサレム入城前に三度も弟子達に、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」(マルコ8:31、9:31、10:33)と言われました。しかし、弟子達は事の重大さに気づかなかったり、質問を怖れたり、あるいは自分たちの位地争いをする醜態さえ見せました。

 イエスキリストのエルサレム入城は、即十字架への道であったのです。イエスキリストの死そして復活はこの世に神への信仰と教会の誕生をもたらしました。そして教会の成立により十字架の意義が確立されました。

 (Ⅰ)十字架は神が人々を救うためにイエスキリストをこの世に送られ,死と復活を通して救いの象徴となりました。イエスキリストは神の意志に忠実に服従し、苦難をいといませんでした。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことでなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:36)

 (2)十字架には神の知恵が込められた深い意味があります。「復活」は人間の理性では理解出来ないものです、しかし「十字架の言は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(コリント一1:18) 十字架を救いの力にかえるのには、信仰と霊の働きとを必要とします。

 (3)十字架は罪のゆるしのしるしです。それはイエスキリストが死をもって、人類にかわって罪のあがないとなられたからです。したがって十字架は神の恵みの賜物であって、信仰を持って受けるべきものです。「神はこのキリストを立てその血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(ローマ3:25)

 イエスキリストは言われました、「私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」(ルカ9:23)                      

 川平朝清
 

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2015年3月29日  (過去メッセージのリンク)
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