巻頭言 

救いの証」使徒言行録、172232

函館に、バター飴や焼き菓子のマドレーヌなどのお土産で有名なトラピスチヌ修道院があります。修道院の敷地内のお土産を売っている店のそばに、キリスト教関係の像や絵画が飾られています。15年ほど前に社員旅行で行ったときに絵画を見ていると、見知らぬ二人連れの若者の一人が背後で「人が神になるなんて、おかしいに決まっているだろ!」と呟いていました。

 正確には、人が神になるのではなく神が人になる、わけですが、全知全能・不老不死の神様がわざわざ好き好んで生身の人になる必要は普通に考えるとないので、キリスト教には「おかしい」ところがあるのは確かだと思います。アテネを訪問したパウロは、市民たちに福音を伝えようとしましたが、死者の復活の話になると市民たちのある者はあざ笑い、ある者は立ち去りました。一般の理解・常識に反する、おかしな話だからです。復活の話だけではなく、生母マリアの話など、キリスト教には理解することが困難な「おかしな」教えが多く出てきます。

 ところで、普通に理解できる話を「信じる」必要はいったいあるのでしょうか。たとえば横浜から大阪に新幹線で行く時、大阪に行けることを「信じて」切符を買う人はいるでしょうか。大阪行きの切符を買って大阪に行っても、普通に横浜にまた戻ってきた人は大勢います。多くの人にとって確かなことや尤もなことは「信じる」必要はないのです。神が、私たちのために、生母マリアを選んでイエスという人になり、十字架の上で死に、三日後に復活したという荒唐無稽な話だからこそ、神が私たちを救う証であると「信じる」必要があるのではないでしょうか。(竹下公也

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2015年3月8日  (過去メッセージのリンク)
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