巻頭言 

「天の故郷」ヘブライ人への手紙Ⅰ11:1316  

「召天者記念礼拝」とは、どのような礼拝で、どのようなことなのだろうか?それは《向き合うこと》《向き合うとき》なのです。
 その一つは「先に召された人」を思い出し、偲ぶのです。聖書は「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。」(テサロニケ一4:13 口語訳)と勧めています。私たちは、多くの人たちから多くの生き方を学びますが、先に召された人たちからは、凝縮した生を教えられ、学びます。その意味で、故人を思い出し、偲ぶことによって豊かにされ神への感謝に導かれるのです。

《向き合うこと》の第二は、「死について」です。私たちは、時折、「死について」考えることがあります。然し、その「死」は、「他人事」としての死で終わってしまうのではないでしょうか。そうでなく、「あの人の死」でなく、「この人の死」でなく、「私の死」、「一人称単数の死」について考え《向き合う》ときを持つのです。
創世記5:1~32は、アダムの紹介です。ここでは10人の族長の名が出ています。皆、長生きをした人たちです。一番長命な人はメトシェフで969年生きたとされています。しかし、いずれの族長も最後は「そして死んだ」と結ばれています。誰もが、最後は「そして死んだ」と書かれるのです。死を考えることは、如何に生きるかを合わせて考えることになります。
 《向き合うこと》の三つ目は、「死後」のことです。ヘブライ11:1~12は、イスラエル民族の指導者たちが、どのように生きてきたかについて書かれています。一言で言うと、信仰の模範者として生きたということです。ここで「信仰によって」という言葉が12回も使われています。ここで言う信仰とは、どのようなことを指しているのでしょうか。それは「死後の世界がある」という信仰です(16節)。族長たちの信仰は、「約束のものを仰ぎ望む生活」つまり「神の約束を望んで生きる生活」であったのです。彼らの生涯は、天国を仰ぎ見て、「喜びの声をあげ」ざるを得ないほどだったのです。
「天国を目指して生きなさい。そうすれば、あなたは天国もこの世も得られます。この世だけで生きるなら、天国もこの世も共に失うでしょう。」(C・Sルイス)
「雨があがるように、静かに死んでいこう。」(八木重吉)   (田中仁一郎)


 

                

 

2013年11月2日  (過去メッセージのリンク)
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