巻頭言 

「愚かな者は誰か」コリント信徒への手紙Ⅰ1:18  

きょうの聖書の箇所には「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」と書かれています。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなもの」と言われていますから、もし、これが本当だったら、私たちの毎週教会へ通うこの時間等、それは大変な無駄遣いと云うことになります。

マルコ1017-22 には、金持ちの青年のことが記述されています。彼は、まじめで、立派な人だったのでしょう。モーセ五書を暗記し、律法をしっかりと守っていたのでしょう。しかし、イエス様に「あなたには欠けるものが一つある」と言われました。見せかけは完ぺきでしたが、神様にすべてを捧げて従うという思いに欠けていました。コヘレトの言葉24-11 「~見よ、どれも空しく風を追うようなことであった。」と、何を得ても空しい王の思いが書かれています。

この青年は世間的に見て行いは立派だったが、そこにはいつも都合の良い自分があり、強い自己があったのです。そしてやはり、自分の地位、名声、財産を守りたいという強い思いが心を支配していました。

コリント一128-29 「また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」私たちが十字架の言葉を「愚か」と思うか、「神の力」と思うか、そこが大きな分岐点です。

たとえどんな素晴らしいものを得たとしても、空しく、不安な毎日では本当の喜びはありません。空しい毎日から解放される。不安な毎日から解放される。それが十字架の言葉であります。その十字架の言葉をすべて受け入れていく時、それは愚かなものではなく「神の力」として生き生きと私たちの心に溢れてくるのであります


 

                

 

2013年10月26日  (過去メッセージのリンク)
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