<巻頭のことば>

欲することと必要なこと」マルコの福音書 1:1~13。

「神の子イエス・キリストの世にも素晴らしい物語」(1)を書き始めようとしたマルコは、話題を「バプテスマのヨハネ」に移します。

マタイの福音書もルカの福音書も、その書き出しは「イエスの誕生物語」から始めています。それが終わると、続いて「バプテスマのヨハネ」について筆を進めています。ヨハネの福音書も、神学的というか詩的というか、あの書き出し(序文)を終えると、同じようにバプテスマのヨハネを登場させています。マタイもマルコもルカも、そしてヨハネも、イエスの出来事を書くについて、このバプテスマのヨハネという人を除くわけにはいかないと思ったのではないでしょうか。バプテスマのヨハネという人は、どのような人でどのようなことをした人なのでしょうか。彼は、あの横綱の土俵入りのとき、太刀持ちと露払いが同道するように、救い主がこの世に来られるときの先導者、救い主の紹介者、準備する人として旧約時代から預言されていた人なのです。預言者イザヤは、ヨハネのことを荒れ野で叫ぶ「声」(3)と紹介していますが、マルコの福音書は、他の福音書に比べて、その「声」(メッセージ)の記述は少ない。注目することは、ヨハネのメッセージの反響の大きさです。

以前読んだ幼児教育に関する本の中にあった言葉を、最近、繰り返し思い出されるのです。「欲しがっているものを与えるのでなく、必要なものを与える」(エリックソン)という言葉です。ヨハネは、「そのころ」(9)の人たちが望んでいることを語ったのでなく、どうしても必要なことを語ったのでした。この後、間もなく聞くことになる「神の福音」(1415)の助けのために。

このことは、私たちの聖書の読み方にも通じることです。同意できる聖句、納得できる聖句、自分にとって都合の良い聖句だけでなく、信仰の成長のために必要な聖句を謙虚さをもって受け入れる聖書の読み方です。

                           (田中仁一郎)

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2013年9月7日  (過去メッセージのリンク)
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