<巻頭のことば>

「鍵をかけると安心ですか?」 出エジプト記3215-19

モーセに率いられたイスラエルの民は、モーセがシナイ山に登ってしばらく帰らないと不安になり、金の子牛の偶像を拝み始めました。それを見たモーセは十戒の石板を投げつけて怒ったのです。

モーセ五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)には、たくさんの律法が書かれています。このような偶像礼拝が再び起こらないよう、たくさんの律法が言い渡されたのです。

私たちの世の中も事件が起こると、「もっときちんと法整備をした方が良い」「もっときちんと法律で取り締まった方が良い」と、言われます。確かに法律は大切ですし、安心できます。しかし、イエス様が十字架でいけにえになり、そんな律法はいらなくなりました。

ヘブライ人への手紙911-12「けれども、キリストは既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、ご自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

 私たちは、留守をするとき安全のため鍵をかけます。鍵をしめなくても、命も守られ、財産も守られるなら、それが一番楽で安心な生活です。どれだけ平安なことでしょう。私たちは、いつの間にか、家に鍵をするように、心にも鍵をかけてしまいます。他人に侵入されないように、他人に中をみられないように、心にも鍵をかけることが多いのではないでしょうか。

教会の中では、心の鍵もなく、全く平安な時を過ごしていきたいものです。

私たちは分かち合いの時を大切にしています。礼拝の中、その他の集会や個人的な交わりの中で、心の鍵をかけずに自分の悩みを話し、他人の悩みを聴く・・・そうした時を多く持つようにしています。

牧師不在の今日、私たちは互いを縛りあう律法を強めるのではなく、心の扉を開けて、共に分かち合って自由になることこそ、一番大切なのではないかと、切に思うものであります。(飯塚道夫)

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2013年8月31日  (過去メッセージのリンク)
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