<巻頭のことば>

「どの神様?」      使徒言行録14818

 リストラという町で、生まれてこの方、一度も自分の足で歩いたことのない一人の

男がパウロの語る福音にじっと耳を傾けておりました。彼に信仰を求める心ありと見たパウロが「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言ったところ、その人は踊

り上がって歩き出しました。この人のことを昔から知っていた町の人々は、この男がサクラで出演しているわけでもなく、何の仕掛けもない、正真正銘の奇跡であることを認めざるを得ませんでした。たった一言で奇跡を起こしたパウロを町の人々は「

人間の姿をとって我々のところにお降りになった神々である」と信じて、パウロをゼウス、同行者バルナバをヘルメスとして礼拝しようとしました。つい先ほど「偶像礼拝をやめて真の神・キリストを信じなさい」と説教したばかりなのに、パウロの意に反して人間を神として祀り上げようとした人々に対してパウロは「あなた方がしているまさにその行為こそ神が最もお嫌いになることだ」と言い、抗議のしるしに、着ていた服を引き裂いたのです。日本でも、ちょっと奇跡的なことをやると直ぐにその人を神様にしてしまいます。町の拝み屋さん、××教の教祖、果ては山や樹齢何百年の樹木や奇岩に至るまで注連縄を張って拝むではありませんか。日本は八百万の神々がいる、神々のデパートのようであります。しかし、神という御存在は、全てのものの根源であるはずですからそのお方は唯一の御存在でなければなりません。聖書は、神と言われるものが、あそこにもここにもいると考えるのはおかしいのではないかと私たちに問いかけているのです。

 聖書はあなたの魂を揺すぶり、涙をこぼすほどの感動をお与えくださる神について語っております。それはずばり、イエス・キリストという御方であります。キリストは「わたしを見た者は、神を見たのである」とおっしゃいました。神がどのような御方であるかを知りたければ、聖書を読んで、キリストに出会いなさいということです。キリスト抜きで神を知ることはだれも出来ません。

 或る時、入院中の信者の方を見舞いました。その方の隣のベッドに、一人の老人が横たわって、絶え間なく「痛い、痛い」と苦しそうに呟いておられました。「どうなさいましたか?」。「帯状疱疹で、もう3年も苦しんどる。何とかならんもんじゃろか」。

「私も、それで二度痛い目に遭いました。とにかく神様にお祈りしましょう」。するとその人は「どの神様け?」(富山弁)と問われました。私にとって神は、天と地とその中に生きる全てのものの命の源なる神であります。わたしはキリストの御名によって祈りました。眼を閉じて聞いていたその人は、帰り際に「また来てくれ」というように眼尻に涙を滲ませておられました。

 どの神様?と問われなければならない、この日本の国で、あなたは「私の信じる神はこの御方です」と言える神を見出しておられますか? (本多英一郎)

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2013年7月27日  (過去メッセージのリンク)
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