<巻頭のことば>「荒れ野への旅立ち」 出エジプト記161-3

奴隷のイスラエルの民は、エジプトから解放されました。しかし、荒れ野を旅する間に次第に不満がつのっていったのです。神様から守られ、多くの奇跡を起こしていただきながらも、つぶやきが多くでました。私は初めてこの箇所を読んだ時、ただ文句を言う、ひどい民だと思いました。しかし、私たち日本人にとって、雨が降らない、全く水が無い荒れ野という状況を、肌で感じることができないことも、また事実です。彼らは移動するときに、常に水源を求めて歩かなければなりません。幕屋生活は本当に大変なことだろうと推察できます。聖書の中には水に関する箇所は良く出てきます。

ヨハネ413-14 イエスは答えて言われた。「この水を飲むものは誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲むものは決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

彼らはその荒れ野を歩き続けました。しかも、何月何日に目的地に着けるという保証も全くなかったのです。彼らの旅はなんと40年続きました。

さて私たちは、無牧師という荒れ野へ旅立ちました。ただ、イスラエルの民と、私たちとは決定的に違いがあります。イスラエルの民は奴隷から解放され、乳と蜜のしたたる約束された土地への希望の旅立ちでした。しかし、私たちは、今の生活に満足しているのに、無理やり出発させられた旅立ちです。

イスラエルの民は希望に燃えて出発し、その途中で不満を洩らしましたが、私たちは、出発する前から不満を洩らしたいのです。イヤ、旅立ちなど全く望んでもいなかったのです。ですから、我々の旅は、いつ不満が爆発してもおかしくない旅なのです。

しかし、私は不思議な予感がするのです。この旅は苦しいに違いない。不満がたまり、様々な問題が起こるに違いない。しかし、その先には素晴らしい乳と蜜のしたたる所が待っている。神様はちゃんと用意して下さっている。そうした強い確信があるのです。

マタイ633-34 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(飯塚道夫)

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2013年7月13日  (過去メッセージのリンク)
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