<巻頭のことば> 「わたしに従いなさい」  マタイの福音書9913

主イエスは、追われるようにしてカファルナウムに移動します。そこで中風の人に癒しの業をなさいます(918)。そこを去って進むと収税所があったのです。そこに徴税人マタイが座っているのを主イエスは見掛けられます。徴税人が収税所に座っているのは、店員が商店に座っていることと同じで、見掛けられる状況です。
然し、当時の主イエスについての人々の評判、見方、影響力を思うとき、当然の状況ではないように思うのです。「大勢の群衆」(81)が、「町中の者」(834)が、主イエスを見ようと集まってきたのです。ある時には「イエスが・・家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口のあたりまで集まった・・」(マルコ213)のです。同じ徴税人ザアカイは、背が低かったため主イエスを見ることが出来なかったので、木に登って見たというのです(ルカ19110)。
マタイが「収税所に座って」いたのは、仕事をしていたのでもなく、何か潰されそうな難問題、重荷、悩みを抱えて黙り込んでいたのではないでしょうか。
考えられる難問題の一つは、「職業上の悩み」です。当時の徴税人に対する評価、風当たりは、特に、同国人であるユダヤ人のそれは、最低のものでした。聖書の多くのところに書かれている通りです。もう一つは、「家庭上の悩み」です。マタイは、他に、もう一つの名前を持っていました。「レビ」です。彼の父の名は「アルファイ」(マルコ214)といい、どちらも生粋の宗教的伝統を守ろうとする家柄であることが分かります。それなのにマタイは、両親や親族たちの期待に反してローマ帝国という異邦人の支配者・征服者に身も心も売り渡し、ローマのために同国人から税金を集めているのです。人間関係での誤解、対立などで一番深刻な関係は、親子・夫婦・兄弟などの近い関係のそれです。マタイは、その渦中にあったのです。そんなマタイに主イエスは声を掛けられます。
「わたしに従いななさい。」この主イエスの言葉の一つの意味は、12弟子への招きの言葉です。「わたしの弟子となって、一緒に私の働きに参加しなさい。」と言うのです。もう一つの意味は、「問題を解く鍵はあなたが持っている鍵でなく私が与える鍵を使いなさい」ということです。私たちは、問題に遭ったとき、困ったとき、思うようにならないとき、解決するために用いる「鍵」は、何でしょうか。多くの場合、「私という鍵」です。「私の経験」、「私の考え」です。主イエスが言われる
「わたしの鍵」とは、平たく言って「主イエスの教え」でしょうが、「主イエスの福音」「主イエス・キリストそのもの」です。   (田中  仁 一 郎)                           

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2013年7月6日  (過去メッセージのリンク)
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