<巻頭のことば>新しいぶどう酒は新しい革袋にマタイの福音書91417

「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」(14節)。断食は、神さまに喜ばれる善い行いとして律法に定められていました。ところが、イエスさまの弟子たちは断食を行わずに、徴税人や罪びとたちと飲んだり食べたりしていると批判をしたのです。イエスさまは「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるものだ」と諭しました。

新しいぶどう酒は、発酵してガスを出します。もし古い革袋にそれを入れると、袋は伸びきって固くなっていますので膨らむと破裂してしまいます。ですから、新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れたのです。

このたとえを通して、新しい教えは新しい心、新しい信仰で受け入れなければならない、すなわちイエスさまの教え(新しいぶどう酒)は、ユダヤ教社会の律法的なところを改善する程度では全く変えられないほど、根底から覆す新しい生き方(新しい革袋)を始めなければならないことをイエスさまはおっしゃったのです。

ところで、私たちもイエスさまとその弟子たちを非難する言動があるのではないでしょうか。私たちは、熱心で真面目なことは良いことと考えていると思います。信仰的にも、真面目に礼拝を守り、熱心に奉仕し、献金する、そういうクリスチャンが良いクリスチャンだと考えます。そして、そうできていない他人を非難したり、自分を卑下したりします。しかしイエスさまは、その行いの中味をよく見つめ直してみよと言われるのです。

人に認められ、評価されること、それがこの世の価値観であると考えていないでしょうか。そのような古い考えから、人が見ていてもいなくても、見えない神に喜ばれる生き方を、私たちはイエスさまから求められているのです。

また、その行いに喜びがあるかと聖書は問うていると思います。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。」(15節)。婚礼の場、そこは「喜びの場」です。イエスさまに招かれている喜びです。ところが、神さまに救われた喜びがないと、行いは「しなければならない」という義務的なものになります。私たちの信仰には喜び、感謝があるか、そこが大切なところです。そこから、互いに愛し合う愛が生まれます。

しばらく牧師不在の時期を過ごすことになります。不安、心配、様々な困難があると思います。しかし、私たちは主を信じ、神さまからの恵みをいつも受け入れることのできる柔軟な革袋を心に携え、恵みに感謝し、喜びを持って歩んでいきたいと思います。                (内田一郎)

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2013年6月29日  (過去メッセージのリンク)
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