「新しいことを」 イザヤ書42:8~9

イスラエルの人々は奴隷の地エジプトから主なる神さまの導きにより乳と蜜の流れる地カナンを目指して脱出しました。聖書は、40年にわたる荒野の旅で「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。」(出エジプト13:21)と語ります。私たちの教会の開拓と伝道の旅を出エジプトのそれと比較すべくもありませんが、その行程すべてに同じ神の慈しみと恵みの先導があったことを今日覚えます。

「感謝をもって」 ダビデは、「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何一つ忘れてはならない。」(詩編1032)と、救われて今あることに感謝することを勧めました。人は、苦難と怖れ、戸惑いの時に「感謝」することは困難です。しかし、「感謝」を捧げるところに具体的な神のわざは始まっています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11:1)

「分かれ道に立って悔い改め」 教会の歩みには時々分岐点があります。エレミヤ書6:16でイスラエルが民族の危機に立った時、主はこう言われました。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」と。それを教会のこととして捉えるならば、単に教会の歴史を失敗や成功の物差しで測ることなく、過去の道に神のご臨在を認め反省し、恵みを数え信仰に立って新たな道にも同じ神が共におられることを信じ前に進むこと、それが悔い改めの意味するところだと言えます。

「新しいことを」 アッシリヤ、それに続くバビロニアによって国滅ぼされたイスラエルの民に、主は「主の僕」を送ることを約束されました。絶望の中に救い主イエスの到来をイザヤは予告したのです。「新しいこと」は複数形で、未だかってなく予想もつかないこと、「主の僕」によってもたらされる魂の救いの業と言えます。「あなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。」(41:9,10)と、主はこの世の道理によるのではなく、十字架の死と復活にある主イエスを信じる信仰により、「神の愛」による逆転の法則により救いを成して下さいます。新しいことは今も続いており、教会は新たな魂の救いのために、どんな困難なことがあろうとも神の恵みによって守られ導かれているのです。

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2013年6月15日  (過去メッセージのリンク)
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