「天にある喜び」 ルカによる福音書15:11~24

本日の礼拝は、聖霊降臨日(ペンテコステ:復活から50日目)を記念して捧げます。日本では普通、人が亡くなって49日間を中陰と言い、魂はあの世とこの世の中間にあり50日目は忌明けとされています。イエス様の弟子たちにとっての49日は、十字架に死んで蘇られたイエス様の証人とされるために聖霊を待つ時でした。彼らはペンテコステの日、聖霊注がれ多言語で福音を語り始めたのです。教会が生まれ、語るべき言葉のために弟子たちの舌が解かれたました。


聖書の中で感動するイエス様のたとえの一つに放蕩息子の話しがあります。そのテーマは、「神は、失われた魂の帰還を待ち続けておられる」ことと「神と人との関係の回復に神の喜びがある」ということです。
レンブラントが描いた「放蕩息子の帰郷」という絵がありますが、不思議な安堵感を覚える絵です。放蕩の限りを尽くして、どうしようもなくなった時、彼は「我に返って」故郷を思い、父を思い出します。たとえによれば弟息子が家を出たのは生前分与を申し出た彼の不遜さにあると考えられています。しかし、現実はもっと複雑かも知れません。帰郷した弟に対する兄の態度を見ると、その兄弟関係は決してうまく行っていなかったようです。また、この物語には女性が一人も描かれていません。母のことも、兄が妻帯者であったのかも分かりません。弟の家出にもそれなりな理由があったのかも知れません。しかし、その背景を詳細に描くことなく、物語は弟の「気づき」を語ります。「我に返る」それは罪の気づき、言い方を変えれば人間関係ではなく、神との関係への気づきでしょう。財産を浪費することも神との関係の中での命の使い方、自己認識の間違いもあるかもしれません。父親は遠く離れた弟息子を見つけ、憐れに思い走り寄って首を抱き、接吻しました。和解と赦しは神の憐れみによって始り、悔い改めはそこに添えられます。
その絵には、年取った父が優しい眼差しと大きな温かな手で、をまといかかとがすりへった靴を履き汚れた足でひざまずく弟を抱く姿があります。そして、弟の顔は長い長い旅を続けた果てにたどり着いた深い安堵感に満ちています。


教会は、キリストにある赦しと和解を告げ、魂の旅にある多くの人々に帰るべき故郷を知らせ、神の子とされること、天にある喜びを共に分かち合い伝えていくところだと言えます。共に主イエスの福音を語り続ける群れでありたいと願います。

2013年6月8日  (過去メッセージのリンク)
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