「真ん中に」主を置いて ” ヨハネによる福音書20:1923

 安息日を避けて早々と行われた十字架刑が終わった後、週の初めの日、弟子たちは恐れの日を過ごしていました。前日の安息日にはユダヤ人たちは弟子たちに手出しはできず、「その日」それは起ころうとしていました。

「家の戸に鍵をかけていた。」弟子たちの「恐れ」の心は家の戸だけでなく主の甦りの約束から目をそらせ、可能性に鍵をかけるものでした。教会にとって、この世の習わしの形だけに同調同化していくことだけが世俗化なのではなく、教会が憐れみと慈しみの神、畏れるべき方から目をそらし、主イエスへの信仰告白に生きることを止めた時、本当の世俗化が始まると言われます。神の愛に心を開き、心の戸に鍵かけず、頑なさを捨てて、主イエスを信じる恵みの信仰によって現実に立ち向かう時、私たちに解放が始まると私は信じます。

主イエスは、彼らの「前」や「脇」、「後ろ」ではなく「真ん中」に立たれました。「恐れ」の渦中にある弟子たちの「真ん中」に主イエスは立たれました。主は私たちの弱さに同情できない方ではなく、十字架に立たれたように、私たちの出来事、状況、感情の「真ん中」に立たれる方です。「真ん中に」神を置いた戦いの印が死に勝利されたイエスの手とわき腹にありました。

「あなたがたに平和があるように」二度も繰り返された主イエスの祈りに似た言葉に、神より与えられる平和の重要性、確実性が現されています。「あなたが人を裁く時、あなたは自分中心の人となり、人のために祈る時、神中心の人になる。」と言います。たとえ赦すことができなくても祈ることはできます。

「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」信じる者は、「恐れ」から「赦し」に派遣されます。神様の犠牲の愛を伴う赦しから平和は始まります。教会は主イエスを救い主と告白し、和解の言葉をゆだねられた共同体です。最も近い人間関係の中にも、国家間の埋まることのない軋轢の中にも主の十字架の痛み苦しみは及び、そこから神の癒しと慰めと和解が当事者同士に及ぶと信じて歩む教会になることを私たちは願います。

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2013年6月1日  (過去メッセージのリンク)
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