「心動かされ」  ローマの信徒への手紙1212

ローマの信徒への手紙は、教会が生まれて四半世紀が過ぎた頃、当時の世界の中心にできた教会に向けて使徒パウロが書いた神学的にも重要な書簡です。「ローマ書講義」で、M・ルターの最大の関心事は、「罪人の義認(罪ある者が正しい者と認められること)」でした。彼は、パウロの手紙から「キリストが罪を償い、キリストがただしくあり、私の弁護であり、私のために死んでくださって、ご自分の義を私の義とし、私の罪をご自分の罪としてくださった。私の罪をご自分の罪となさったのであれば、私はもはや罪をもたず、自由である。」と、信仰による義認の教理を自由への道しるべとしました。もはや救いは恵みによる他ないとしたのです。

 「わたしは福音を恥としない。福音はユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(116)との言葉は、「我」の強い私の身にも及び、キリストを知って初めて自分が真の神以外のものに束縛され自由を奪われている惨めな存在であることに気づかされました。

 キリストにあって自由とされた者の新しい生き方を論じる前にパウロは、救いの不思議を「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」(1136)とそれがまったく神主導の出来事と表現します。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」それは、キリストにある人は、ありのままを知られており自分を偽って生きる必要がないということです。「献げる」とは、神の側に自分を置くということです。もう人の立てた基準に自分を置く必要がない、しかし、パウロは言います。「この世に倣っ(口語訳:妥協し、新改訳:調子を合わせ)てはなりません」それは、この世に背を向けて生きることではありません。この世の、人間の力を中心にしたパターンに自分を置くのではなく、キリストが愛と慈しみに生き、十字架に死に復活されたように、キリストの言葉と生き方に心を置き、復活の命に生きることだと思うのです。困難ですが、キリストを信じることこそ善い行いであり、それは、キリストの愛と恵みに心動かされた結果であり礼拝なのです。「心動かされ、進んで心からささげようとする者」(出エジプト35)は主の安息に置かれた者、その安心の中で私たちは他者との関係に生き、平和を作っていくのです。

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2013年5月18日  (過去メッセージのリンク)
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