<巻頭のことば> 「一つの体」 コリントの信徒への手紙一121227

コリントの教会には、霊の賜物の理解が欠けていました。霊の賜物は特別な才能や能力、知恵知識のことではありません。その無理解がコリントの教会の混乱を招いていました。

賜物は聖なる神の現れ:神ご自身が自由に一人一人にお与えなる神の働きの結果が賜物です。私たちがそれを管理し、より良いものにしていくものでもありません。賜物をお与えになる聖霊なる神ご自身が、信じる者たちを通して教会のわざを行ってくださるのです。

賜物を与えられるのは聖霊なる神:その務めには色々ありますが、お与えになるのは同じ神、働きにも色々ありますが、すべての場合にすべてをなさるのは同じ神です。一人一人に霊の働きが現れるのは、教会を建て上げるためであるとパウロは言います(12:4~7)。神の働きであるならそこには分裂ではなく、調和があります。ローマ書においてパウロはまた、平和や互いの向上に役立つことを追い求めるよう勧めます(14:19)。賜物の比較をし、優劣をつけ、自分勝手に賜物を用いる時、教会は分裂しそれを互いに喜ぶことができなくなります。才能や能力が大切なのではなく、聖霊の働きを信じ多様性を認め一致するなら教会は成長するのです。

教会はキリストの体:組織や運動体は人間の体にたとえて分かりやすくその働きを説明することがありますが、教会の働きは整然と軍隊のように役割や責任を割り当てれば出来るというわけではありません。重要なことは教会は皆一つの体となるために洗礼(バプテスマ)を受け、一つの霊、聖霊を受けていることを信じて共に生きることです。神様は神様のなさりたいことを、信じる人々を通して行ってくださいます。どんな小さな働き、奉仕にも神様の動機を一番にし、互いに仕え合い捧げ合う時、キリストの体である教会は互いが神のなさりたいことのために用いられたことを喜ぶのです。教会が無牧師となる時不安が生じます。でもそれは神のなさりたいことが無くなるのではなく、新しいことを神が一人一人を通して始めようとしておられるしるしであり調和していくことなのです。

<

 

 

2013年4月27日  (過去メッセージのリンク)
毎週礼拝メッセージを更新しています。(過去メッセージのリンク)