<巻頭のことば> 「信じる者にヨハネによる福音書202429

ヨハネ書13章には、過ぎ越し祭の前イエス様は、「この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」とあります。それであっても、イエスを裏切ったユダが、否んだペテロや他の弟子たち、そして復活のイエスを疑うトマスがそこにいました。

イースターは旧約聖書の「過ぎ越し祭」(パスカ)に由来しています。イスラエルの民が奴隷の地エジプトから脱出する時、神の裁きがイスラエルを過ぎ越してエジプトの初子に及び彼らが自由となったことを祝ったことから、クリスチャンは神の小羊イエスの犠牲によって罪の裁きから免れたこと、そのイエスが死から復活されたことをお祝いしました。「死」への勝利をお祝いしたのです。

先週の受難日、十字架上のイエス様の呻き、絶叫の言葉を分かち合いました。詩編22編に見られるその言葉は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ2746、マルコ15:34)という言葉です。それは、イエス様の不信の言葉ではなく、近くにいても手を出されない父の苦しみを分かつ言葉です。パウロは言います。「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ローマ4:25) なぜ神はイエスに手を差し伸べられなかったのか、それは私たちを救うためです。イエス様は最後に「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られました(21:30)。「支払の完了」や「負債の破棄」を意味し、同時に神の犠牲を印す言葉です。

トマスは不信仰な人でしょうか。いいえ、彼はイエスと一緒に死ぬ覚悟さえした信仰の人でした。彼は復活のイエスに会った弟子たちの言葉だけでは満足しない、自分の指と手で確かめなければ信じないという、科学者のような人でした。「死」に、確かに勝利したイエスを確認したかったのです。しかし、そんなトマスのためにだけイエス様は再び立って言われました。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 復活を疑う私たちに寄り添う主イエスの心の痛みさえ感じます。十字架には、神なる父と、子なるイエスの葛藤があります。復活を信じる信仰には、私たちの弱さ脆さへのイエス様の慈しみと憐れみの眼差しが注がれています。見ないで福音を聞いて信じる者、神の思いを知る者となりたいものです。

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2013年4月20日  (過去メッセージのリンク)
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