<巻頭のことば> 
「一人ひとりのゲッセマネの祈り」マタイ福音書
2636-46

ユダヤの三大行事は、過越しの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りですが、そのうち一番ユダヤ人が大切にするのが過越しの祭りだといわれています。彼らは夜通し過越しを祝ったのち、オリーブ山へ出かけて行きました。ゲッセマネの園で祈る時、ついて行ったのはペトロとゼベダイの子、すなわちヤコブとヨハネです。

その時イエスは「悲しみもだえ始めた」と書かれており、マルコによる福音書やルカによる福音書にも同様に苦しみもだえたと書かれています。イエス様はこれから、人間の罪の身代わりとして十字架につくというご計画をご自分だけ知っておられました。人間の罪を許すのは、十字架という方法以外にないのか。できるならば違う形はないのか、必死に祈られました。

私たち日本人に、いけにえという行為はなかなかピンときません。しかし、当時のユダヤの人々にとっては、一番日常的でわかりやすいことでした。自分たちの罪の替わりに、いけにえは常に捧げられていたからです。イエス様はできればこの杯を取り除いて下さいと祈りました。違う方法はないのかと祈りました。

私たちも、これから行く自分の道が、険しければ険しいほど、「違う道がないのか」と思いますし、その違う道を願います。またできるなら、このまま先へ進まず、ここにこのまま残っていたいとも思います。

イエスが十字架についた後、弟子たちは散らされました。「羊飼いがうたれた時、羊はバラバラになってしまった」のです。

青葉キリスト教会の私たちは、今ゲッセマネの祈りをしています。「神様、どうか違う道はないのでしょうか。今のままの生活を続けていくことはできないのでしょうか」と。

イエス様はただ悲しみもだえるのではなく、その後「しかし、私の願い通りではなく、み心のままに」とも祈りました。

私たちは「悲しみもだえ」ながらも、「苦しみもだえ」ながらも、復活のイエスを信じてこの現実を受け止め、神様のみ心を追い求めていきたいと願います。

コリント信徒への手紙二416-18「だからわたしたちは落胆しません。・・・・・見えないものは永遠に存続するからです。」               飯塚道夫

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2013年4月13日  (過去メッセージのリンク)
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