ガリラヤへ」 ルカによる福音書5:1~9

静寂な朝、人里離れた所でイエス様は日々父なる神との交わりを持たれました。故郷では歓迎されなかったイエス様はカファルナウムで宣教を続け、ある日ガリラヤ湖畔に立っておられると人々が神の言葉を聞こうと押し寄せました。人々はイエス様の口から出る恵み深い言葉に驚き、苦しみ悩み問題を抱えた人たちが癒されていきました。イエス様の言葉を聞き、わざを見た人たちはイエス様に助けを求めることに躊躇はありませんでした。現代に生きる私たちにとっても、イエス様を知る重要な手立ては、率直に助けを求めること、恥やプライドを捨てることです。「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)

イエス様は二艘の舟を見つけ、そのうちのシモン・ペトロの持ち舟に乗り語られました。終わるとペトロは主に漁を命じられ、彼は答えました。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」漁の専門家であった彼の言葉は、思い通りにはいかない現実を知っている人のものです。善人は幸せになり、苦労は必ず報われるとは限らず、むしろ逆なのが現実です。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」それでもペトロには疑う思いもあったのでしょう。大漁の奇跡が起こった時、彼は自分の不信仰を告白しました。

弟子となった人たちは、ペトロも含め、イエス様の招きにすべてを捨てて従った人たちでした。ペトロたちは生計を立てる舟や網を捨て、徴税人マタイは帳簿や隠し金庫も捨てたかも知れません。マルコによれば、ゼベダイの息子たちは父も雇人も舟に残して従ったと書かれています。彼らには父親の老後のこと、雇人のことなど諸々のこの世の煩雑な、しかし今を生きる私たちと同様、無視できない問題が数々あったに違いありません。その上で、イエス様はペトロを招かれました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」

最初のイースターの朝、イエス様の空の墓で天使は婦人たちに言いました。「ガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。」(246) それは復活の約束であり主イエスが語られ、なさったことの全てが真実であったことの証拠です。ガリラヤは辺境の地、異邦の地でしたが、福音宣教が始まった場所、弟子たちにとっては主イエスと出会い、愛され、共に生かされた場所でした。

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2013年4月6日  (過去メッセージのリンク)
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