「十字架への道」 ローマの信徒への手紙518

イエス様の受難を覚えながらイースター(主の復活)を待ち望む季節を私たちは歩んでいます。「受難」や「犠牲」、そして「十字架」は否定的で消極的に感じる言葉だと言われることがあります。イエス様による神の国運動は結局十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)との叫びをもって挫折したと、懐疑論者は言います。キリスト教は暗い。殉教とか苦難という言葉や十字架で死んだイエスを崇めて何の得になるのだろうと。

しかし、主イエスの十字架と復活が私たちにもたらしたものは、「これでは終わらない」裏打ちされた希望なのです。キリスト教にも仏教で言う、「悟り」の境地はあります。しかし、それは「運命だから仕方がない、諦めるしかない」ということではありません。私たちは自然の営みを神の摂理、あるいは神のご計画と混同し、すべてを受け入れることが神の御旨と考えてしまっていないでしょうか。しかし、イエス様にそのような諦めや悟りはありませんでした。むしろ、矛盾や不条理、不正・不平等や偽善と戦い抜かれた果てに十字架があったのです。

そして、だからこそ十字架には慰めと癒しが満ちています。使徒パウロはローマ書5章で、「わたしたちは神の栄光にあずかる希望を持ち、苦難をも誇りとする」と語りました。なぜなら、イエス・キリストは十字架の苦難を受け、死んだ後、事実復活させられたからです。「信仰をもって耐え、この世の不条理や矛盾と戦うことには意味がある」のです。手紙の終わり近く12章で、彼は命令します。「愛に偽りがあってはなりません・・希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」(12:12) 彼は信じる者に模範的な生き方を求めているのではなく、ひとり子をお与えになるほどの偽りのない愛で愛されている者として生きることを勧めているのです。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」当前のようですが、相手と逆の立場にいる時難しいことがよく分かります。十字架への道は、諦めや運命に従う道ではなく、苦難を超えて復活されたイエス様の道、「これでは終わらず、神は必ず勝利される」という終末的希望を与える道です。「人生、泣き笑い」そう諦めながらも生きる私たちと神が共に戦っていてくださるのです。

<

2013年3月30日  (過去メッセージのリンク)
毎週礼拝メッセージを更新しています。(過去メッセージのリンク)