「子どもたちを来させなさい」

使徒パウロは第二コリント 4:18で「 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」と目の前の艱難に耐え、落胆せずに生きるようコリントの教会の人々を励ましました。しかし、現代の世界に生きる私たちに、二千年前には想像もつかなかった艱難が立ちはだかっています。

先日のニュースで、福島では子どもたちの甲状腺がんの臨床例が増えていることを例に、国策の側にある医療関係者と一般の医療従事者の患者側への告知指導の在り方の違いの深刻さを報じていました。また、農林漁業、酪農をはじめ産業の復興についても被災地の格差が広がっている現状が伝えられています。一つの例を取っても、宮城県の漁業に関して港湾整備、漁業環境は被災時より70%の回復を見せていますが、福島県では原発汚染水問題で回復は2%に満たないと報じられています。目の前に広がる海に出て行けないのです。

津波からの復興も防波堤工事や住宅地整備計画が様々な利害関係や考え方の相違によりどの被災地も復興にはまだほど遠い状況と言えます。先日、私は仙台平野に行きましたが、津波の爪痕の中にも回復の希望を見ることができました。しかし、福島では放射能という見えない脅威の前に、町並や村のたたずまいが地震前と同様そこにあるのに近寄れない、戻れない、生活できないのです。元と同じに見えていて元と違うのです。見えないものによって見えているものが阻害されているのです。子どもたちが普通に遊んでいた所、遊べるように見える所で今は遊べない現実があります。一見体育会系男子高校生がポツリと言ったそうです。「ここ(喉)に嚢胞がある。俺、子どもつくっていいんだろうか?」 放射能の影響に大人になった自分を想像できない子どもたちがいます。イエス様はおっしゃいました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」 私たちにできること、イエス様に触れていただくために子供たちを連れて来た人々のように、私たちも見えない艱難を負っておられる方々の側に立って、共

にイエス様の元に触れていただくために近づくことではないでしょうか。

                                  (第一礼拝:小田 衛)

2013年3月23日  (過去メッセージのリンク)
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