「エッファタ」 マルコによる福音書73137

毎年、町田市にある日本聾唖学校から入学の案内が届きます。驚いたことにこの学校では手話は教えません。私立の聾唖学校としては日本最古のこの学校は、元宣教師オーガスト・K・ライシャワー(元駐日大使E・ライシャワーの父)によって開設されました。長女が熱病に罹り聴力を失ったことがきっかけでした。現在もキリスト教信仰に立って補聴を活用した対話教育を基本に、難聴幼児通園施設「ライシャワ・クレーマ学園」を併設し、その活動が続いています。学校紹介には「本校では、最早期から残された聴力をフルに活用させ、自らの能力や個性を十分に生かし、自立して社会に役立つ人を育てます。」と謳われています。自分の存在や能力を現状や境遇で測ったり決めつけないで、与えられているものを生かして生きることに心を向けさせる教育がなされているのだと思います。

イエス様の福音は最初からユダヤ人の枠を超え、すべての人に向かっていました。5章で、イエス様は異邦の地ゲラサで悪霊に憑かれた人を癒し、その福音が地域にもたらされました。おそらくその福音を聞いた人々がこの障がいのある人を「連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った」のでしょう。イエス様は彼らの信仰に応え、一対一でその人と向き合い「エッファタ(開け)」と言われました。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解けたのです。

障がいは人間として劣っていたり欠けたりしていることではありません。それは、主イエスが「神のわざが現れるため」(ヨハネ9:3)と語られた通り、神のご計画に本人も周りの者たちも共に巻き込まれることです。イエス様は「耳が聞こえず舌がもつれていた」人の耳と舌に触れて癒されました。障がいゆえに、人との関わりが困難で、負いきれぬ重荷を負ったこの人の痛みや苦悩にイエス様は触れてくださったのでしょう。私たちは物事を正しく聴き、言葉を交わしているでしょうか?私たちは、本当は閉じた耳、もつれた舌に気づかず実は不自由に生きているのかも知れません。その私たちの耳と舌に主イエスは「開け」と命じられます。

「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」イザヤが預言した言葉(35:5)が実現し、信じて生きる人に開かれた道と関係が与えられて行きます。

2013年3月2日  (過去メッセージのリンク)
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