「喜びの歌」 使徒言行録16:25~34

この世には、いろいろな歌があります。歓喜の歌、平安の歌、悲しみの歌、寂しい歌。人生の場面、場面で、様々な歌が歌われてきました。そのように人生には、様々な出来事が起こります。

 私はアンダンテカンタービレという言葉が好きです。これは音楽の表記ですが、「アンダンテ」とは、「歩く速さで」、「カンタービレとは、「歌いながら」と言う意味です。たとえ、悲しみの歌を歌わねばならない時があっても、その時は大事な時であり、その時を経て、ついには喜びの歌に変わっていくのです。

 パウロとシラスという伝道者は、伝道したという理由で捕えられ獄に入れられていた時にも、賛美を歌いました。人生で四面楚歌の状況にあるような時にも、実は天があいているのであって、神様を見上げることが残されているということです。そこからしっかりと神様が私たちの方を見ていてくださるのです。

 人生には不平不満の歌もあるでしょう。しかし、不平不満に捕らわれているということは、自分が、自分がという世界に捕らわれていることでもあります。「自分が」から「神様が」という視点で見直していくと言うことが大事なのではないでしょうか。

 相模中央におられた青木さんというご婦人は、がんになって闘病されました。その間、聖書を読み、神様の守りを信じてキリスト者になられました。それまでは、「青木さん元気ですか?と質問しても、「はあ、なかなかです」としか答えられませんでしたが、それからは、「はい、大丈夫です。神様がご一緒ですから」とおっしゃるようになりました。顔が変わりました。

 ある時、息子さんから「お母さんはどうしてクリスチャンなのに、神様はお母さんを直して下さらないの?」と問われたことがあるそうです。しかし、その時、「何言ってるのよ。神様がおられたから、今日まで生かされてきたんじゃない」とおっしゃいました。がんの手術から4年目に再発し、余命3カ月と言われましたが、約4年生きながらえて、人々に励ましを与えてくださいました。

 彼女は、神様がこの人生を導いておられることを知った時、心が変わりました。神様が私を見捨てないことを知った時、人は、安心します。そして、上を見上げ歌を歌うようになります。喜びの歌を歌う生き方へ招かれていきます。何があっても大丈夫だと言う安心をいただきます。この安心の中で、今日、私たちは神を見上げる歌を歌う者として生かされているのです。

                        相模中央キリスト教会牧師 福永保昭

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2013年2月23日  (過去メッセージのリンク)
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