「見えるということ」 ヨハネによる福音書9112

生まれつきの盲人を前に、弟子たちは、この人が生れつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか2節)と質問しました。福島旭町教会の方々との交わりを通して、いつ終息するかわからない放射能の恐怖と不安を伺った後でしたので、この弟子の質問を私は「この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したからですか。神さまがおられるならなぜ目が見えない苦しみをお与えになるのですか」と問うているように感じました。「神さまが愛の方ならどうして大震災という悲惨な苦しみをお与えになるのですか」と、知らず知らずに神さまを批判している自分がいると感じました。

イエスさまが二人の罪人と十字架にかかられた場面で、一方の罪びとは、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみよ」(ルカ2339)とイエスさまを罵りました。それと同じことを私はイエスさまに対して言っていたのかもしれません。しかしイエスさまは、私たちの想像を上回るお答えをされます。本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業が、この人に現れるためである。」3節)と語られます。弟子たちは「原因」に注目しましたが、イエスさまは「目的」を示されました。「原因」は目が過去に向くのに対して、「目的」は目が未来の希望へと向かいます。イエスさまは、この盲人をいやされました。

その後、ファリサイ派の人々は「物乞いをしていた盲人がなぜ見えるようになったのか」、事情を調べます。どうして見えるようになったのか、「神の前で正直に答えなさい。私たちは、あの者が罪ある人間だと知っている」と詰問します。しかし、この盲人だった人は、恐れることもなくはっきりと断言します。「あの方が罪人かどうか、わたしにはわかりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」25節)と素晴らしい証しをする人間に変えられました。まさにこの盲人だった人に神の御業が現れました。

福島旭町教会の方々は今も放射能の不安の中での生活を余儀なくされていますが、そのような状況の中でも、「なぜこのような悲惨な状況を起こされたのですか」という原因を求める後ろ向きな姿ではなく、前向きに、多くの恵みを神さまに感謝し、讃美にあふれていました。神さまの御業が働かれていることを強く感じました。

「神さま何故ですか」、と言いたくなるような苦難の中にあっても、「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」と言える信仰告白の上に立ち、私たちに与えられている恵みに感謝し、神さまに希望を持って、信じて歩んでいきたいと思います。 

2013年2月16日  (過去メッセージのリンク)
毎週礼拝メッセージを更新しています。(過去メッセージのリンク)