「何のために」コリントの信徒への手紙一 9:19~2

 ソチ冬季オリンピックが始りました。競技のための4年間の訓練、様々な大会を勝ち抜いてきた選手の努力と集中力は尊敬に値するものです。だからこそ私たちは感動するのだと思います。パウロは福音伝道のわざをそのような競技と選手にたとえ、その目的とゴールは「朽ちない冠」にあると語ります。「朽ちない冠」とはキリスト・イエスにある魂の救いと永遠の命と言うことです。(1コリント9:24)

 「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷となりました。できるだけ多くの人を得るためです。」(910) 使徒パウロは、福音、キリストにある救いをすべての人に手渡すために、彼の人間的な自由と権利とを躊躇なく捨てました。彼にとってそれは真理による本当の自由を得るための当然の行動でした。「行いなしに義とする信仰によって人は自由を与えられる」 Mルターは、パウロの信仰を受けて、「キリスト者は自分自身においては生きないで、キリストと隣人とにおいて生きる。キリストにおいては信仰によって、隣人においては愛によって生きる」と語りました。アスリートの情熱と純粋さをもって朽ちることなく滅びることのない本当の魂の救いの福音のために、隣人に仕えて生きることこそキリスト者に相応しい生き方だと彼は言うのです。この世において、他者のために生きることは愚かなことかも知れません。しかし、混沌とした世の中にあって、そこに秩序よりも大切な平和が構築されると私は思います。

 「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」(923) パウロはやはり自分の利益のために福音を伝えたのでしょうか?また、その目的のために悪いことをしても良いと考えたのでしょうか?いいえ、「あずかる」とは、平たく言えば「分け前」をもらうことですが、パウロの言う分け前とは魂の救い、キリストにある平和と喜びを意味します。福音にあずかる、とはキリストと神の交わりに共に入れられることです。

 指導者たちの利己的動機や無知による正義、その正義のために他の価値観を無視、軽んじる空気が今世の中に広がっていると私は感じます。また、それに無関心、無気力をもって同調、迎合する私たちが独裁を許しているように思います。明後日は、暦の上では「建国記念日」ですが、根拠のない建国史を利用して束ねられていく愛国心を、聖書の言葉に立って検証していく必要があります。

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2013年2月9日  (過去メッセージのリンク)
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