「駆り立てるもの」 コリントの信徒への手紙2 5:1721

 初期の教会の一つ、コリントにあった様々な問題、分派、不品行や結婚問題、偶像問題そして霊の賜物の混乱などにつき、使徒パウロは具体的に時に激しく、時に涙をもって教え導き諭す手紙を送りました。教会が自然に生まれ成長繁栄することは決してありません。そこには神ご自身の犠牲を伴う救いのご計画とそのために派遣される者たち、それを生きる者たちの葛藤と戦いがあります。

 「駆り立てるもの」

十字架のイエス様に遭遇するまで律法(ある意味、神と人との間、人と人との平和を取り持つ基準)という枠の中で生きていたパウロは、律法に対する自分のうわべの正義が神の子イエスを死に追いやるほどの罪であったことに気付かされてしまいます(使徒9:3、エフェソ1:13)。自分が良かれと思っていたことが間違っていた、あるいは、自分の考えや行動は正しいと信じていたことが実は裏腹なことであったことに気付かされたとするならそのショックはいかに大きなことでしょう。そして、イエスにあって赦され砕かれたパウロが召されたのは伝道への道でした。その人生は決して楽なものではなくむしろ苦難、恐れ、絶望、失意落胆、疲労に満ちたものだったと思われます。6章に綴られる忍耐の内容は予測されるものではなくパウロ自身が実際に体験した従軍記とも言えます。それでも人々に神の赦しの愛と、その愛に基づいて生きることを伝えてやまなかったのは、彼がキリストの愛に駆り立てられていたからです。「駆り立てられる」とは、「追い込まれる」「無理に行かせられる」ことで、人権侵害とも言えます。しかし、パウロは「一人の方が(神の権利を侵害されながらも)すべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになる」(5:14)と言います。パウロを駆り立てていたのは十字架に向かわないではいられないほどのイエス様の愛でした。そして、彼も、彼の福音を聞いた私たちも、その愛に駆り立てられているのだと言うのです。

「神の使節として」

パウロは、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」と、過去や現実に縛られ、未来に不安をいだく私たちをキリストの死と復活に結び、朽ちず滅びない永遠の役割、神との和解の任務につかせようと言うのです。彼は世界の平和の前に、きっと涙して切に願っているのです。「まず、あなたが、神と和解させていただきなさい。」と。

2013年1月19日  (過去メッセージのリンク)
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