「信じ祈るなら」 マルコによる福音書11章24節

 聖書の中に、神様を驚かすことがあると言います。それは、世に執り成す人がいないこと(イザヤ59:16)。そして、イエス様を驚かせることがありました。それは、故郷に帰られた時の人々の不信仰でした。(マルコ6:6)

 「祈りには信仰が必要」

当たり前のようですが、信仰のない祈りは祈りとは言えないのです。祈りの前に「神を信じなさい」と言われるイエス様の言葉は原典で、「持ちなさい」「信仰を」「神の」となります。自分中心の信仰ではなく、神がお与えになる信仰をもって「だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」と言われるのです。何と大胆で無制限な勧めでしょう。しかし、「少しも疑わず」私たちは祈れるでしょうか?イエス様はエルサレムの神殿に上られた時、祈りとは裏腹に物の売り買いに勤しむ人々を見、境内を通って物を運ぶこともお許しになりませんでした。祈りから離れた後裏腹な行動をするところに私たちの疑いがあり戦いがあるのです。

詩編116編は「わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き、わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう」と歌います。一時の願いのためだけでなく、生涯をかけて信じ信頼するに値する神様に信仰をもって私たちは祈っているでしょうか?主に祈ることは主を愛することです。主を愛することは継続的に祈ること、強く祈ることはゲツセマネのイエス様のように願うことにおいてへりくだることです。

 「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。」

理屈に合わない言葉です。「わたしの舌がまだひと言も語らぬ先に主よ、あなたはすべてを知っておられる。」(詩編139:4)とありますが、神が既に知っておられるならわざわざ祈る必要はないではないかと思うのです。しかし、神様の関心は私たちの願いそのものではなく、どのような願いであったとしても真摯に聞いてくださる神に対する私たちの態度です。「ひざまずいて祈る時こそ一番高められる時」と言います。「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。」(詩編5112)とダビデは歌います。恨みに思うことがあると祈りは聞かれないとイエスは言われるのです。極め付けの動じない山は、赦せない私たちの心、罪ではないでしょうか?「赦しなさい。そうすればあなたがたも赦される。」(ルカ6:37)

本当に信じ祈るなら、祈ったように生きる私たちが始まるのです。

2013年1月12日  (過去メッセージのリンク)
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