平和があるように」詩編122:6~9

 「主の家に行こう、と人々が言ったとき わたしはうれしかった。」

明けましておめでとうございます。私たちにとっての主の家は、イエス・キリストの贖いにある交わり、キリストを頭とする教会であり、キリストにあって献げる礼拝と言うことができます。神と人との平和をその犠牲の上に立てられたキリストにある信仰の家でもあります。「都として建てられた町」は、主によって「集められた」町であることを示します。「そこに、すべては結び合い そこに、すべての部族、主の部族は上って来る。」 キリストの先に和解と救いと平和があることをうかがわせる言葉です。ローマ帝国はクリスチャンを迫害しましたがその成長を阻むことはできませんでした。皇帝は迫害を断念する代わりに、個人の信仰は認めるが集会は禁じました。しかし、教会は「集まること(礼拝)は霊の命」とし勅令に抵抗し、結果として以前にも増した迫害を受けました。そして、遂に教会は勝利しました。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)とのイエス様の約束は集まることの大切さ、集めてくださるのは神であることを示しています。「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」(ヘブル10:25)とあります。

 「平和を求めよう」 平和(シャローム)という言葉は、様々な要素を持った言葉です。家内安全、商売繁盛、無病息災・・私たちが年頭にあたって自然に願い求める祈りです。決して間違いではありませんが、そのどれもが自分や自分の身内を中心にした願いです。しかし、本当の祈りは平和を求めるところにあるのではないでしょうか?私たちが、神そして他者との「平和」を願った途端、そこは戦いの場と化します。「平和の君」と呼ばれたイエス様は、「わたしが来たのは平和ではなく剣をもたらすためである」(マタイ10:34)と言われました。今年、思い煩いや、どのようなことがあっても、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けて」(フィリピ4:6)参りたいと願います。「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。」と使徒パウロは言います。私たちの究極の幸い、「平和」を願う時、私たちは神の憐れみ、主が味方となってくださらなければそれがあり得ないことを知ります。その主を信じて「あなたのうちに平和があるように」と祈り合う一年でありますように。

2013年1月5日  (過去メッセージのリンク)
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