<巻頭のことば>『どこに向かって』 マルコの福音書 1:21~28

少年時代と青年時代を過ごされたイエスは、ガリラヤのナザレを離れ、ヨルダン川の近くに移られ、救い主としての働きに入られるのでした。そしてその第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」です。神の国、即ち、神によって統治され、神の御旨が行われる時が近づいたとのメッセージです。次の仕事は、弟子を招くことでした。最初に声を掛けられたのは、シモンとアンデレ、そしてヤコブとヨハネの二組の兄弟でした。彼らは漁師でした。その後、8名が加わって総計12名の弟子集団になりますが、その名簿は3章13節から19節に紹介されています。
 ところで、イエスはどうして弟子を招かれたのでしょうか。イエスお一人では仕事が出来ないと考えられてのことでしょうか。その方が楽しくもあり、便利だからでしょうか。イエスは、五つのパンと二匹の魚で五千人の人を満腹にされた全能のお方です(6:30~44)。嵐の海を静められるような力あるお方です(4:35~41)。更に死んで四日も経っていたラザロを生き返らせたお方でもあります(ヨハネ11:1~44)。そのような神の子であるイエスが、その働きをするのについて、人の力を借りなければ、救い主としての働きが出来ないことはありません。

一方、弟子たちとは、どのような彼らだったのでしょうか。イエスにとって苦悩の絶頂であったとき、イエスは弟子たちにこのように頼まれました。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」(マタイ26:38)と祈りの応援をされたのです。にもかかわらず、弟子たちは眠りこけていたのです。ゲッセマネの祈りの協力依頼は、「余程のこと」「死ぬばかりのこと」なのです。にもかかわらず・・です。イエスの十字架に掛けられた時もソウデス。逃げだし、「あなたはイエスの弟子でしょう」と問われたペトロは、「何のことを言っているのか分からない」と答えるのです。そのような彼らを、イエスは弟子とされたのです。どうして・・。
 イエスが弟子たちを招かれたのは、ご自身が地上での働きを終えた後のことを考えての弟子教育、弟子訓練なのです。「今」は、大切です。しかし、その「今」は、どこに向かっての「今」なのか。どこを見ての「今」なのか、です。                      (田中仁一郎)

 

2013年10月5日  (過去メッセージのリンク)
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