「お互いに」 ヨハネによる福音書133135

 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(13:34)

 イエス様のこのご命令は、ユダとペトロの離反予告の間に位置します。寝食を共にし、苦楽を共にし、理解し合えていたと思っていた弟子たちに裏切られることを知りながら語られたその言葉には深いものがあります。「愛する」ことは、「好き」とか「好意をもっている」という感情に基づいた行為ではありません。愛することは嫌いになっても相手を無条件に大切なものとしていく主体的行為です。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)と言われたイエス様ご自身が裏切っていく弟子たちとの壊れていく関係に向き合われたのです。

 総論として私たちはイエス様の新しい掟に異論はないと思います。しかし、各論、すなわち他人事ではなく、自分自身の問題となると話は違って来ます。愛することは善いことだと知っていながら生身の自分は相手を嫌悪してしまうのです。使徒パウロは、自身を肉なる人と呼び、「善をなそうという意思はあるが、それを実行できないみじめな罪人」(ローマ7章)と告白します。しかし、そのパウロがキリストに結ばれた時、神の愛に生きる人、感謝に生きる人に変えられたのです。(2コリ5章) 何故それが可能となったのでしょう。それは、彼がキリストの生き方を手本にしたからではなく、自分を開きキリスト自身を受け入れたからです。

「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:35) クリスチャンにとって隣人を愛することは、キリストとのかかわりを示します。教会が、教会同士が、人間の愛によってつながり、人間の力によってどんなに善いわざを行って行ったとしても、それは脆いのです。犠牲の愛に立てない自分を神の御前に差し出し、他者の前に立たせていただく時、私たちは死より甦らされたキリストにつながっているのです。互いに愛し合うこと、それが私たちの魂の開放、福音の善き知らせとなることを覚えたいものです。

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2013年9月29日  (過去メッセージのリンク)
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