「自立と協力(重荷を担い)」 ガラテヤの信徒への手紙6:1~5

 使徒パウロは伝道の初期においてガラテヤ(現在のトルコ)地方に福音を宣べ伝えました。パウロと同じ救いと信仰に与った人々はその後、律法主義者(掟を守ることにより、良い行いによって救われると信じる人々)に惑わされ、恵みの救いから逸れて行きました。パウロは信仰の枝葉については寛容でした。しかし、救いの根幹については一歩も譲りません。なぜならそれは魂の問題だからです。

人には見える重荷と見えない重荷とがあります。人生の大半を占める苦しみ重荷をどのように捉え対応していくか、そこに信仰の真価が問われます。また、信仰の共同体である教会は互いの苦しみを分かち合う必要をパウロは説きます。そこには「助ける人」と「助けられる人」の関係ではなく、罪に陥りやすい赦されなければならない者同士の関係があるのです。2節の「互いに重荷を担いなさい」とパウロの言う「重荷(バロス)」は「分かち合う重荷」を意味し、互いの心の弱さを見える部分で補い合うことを意味しています。

 しかし、5節の「自分の重荷を担うべきです」との言葉は、マタイ書11:28の「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と語られるイエス様の言う「重荷(フォルティオン)」、「見えない荷物」を言います。魂の疲れ、プライドや自我の性質、変えられない思い、霊的な重荷のこと、自分でしか向き合えない重荷のことです。イエス様は、神としてのプライドを捨て、変えることのできない十字架への道、苦難を負われました。私たちが内なる苦しみの中にある時、その極みに死に、甦られたイエス様を救い主として受け入れるなら、不思議に心の重荷が軽くなると言うのです。自立とは、見えない神を認め、自分自身の内面的な苦しみの存在を認め、重荷をイエス様に委ね、霊の休息と自由とを得ることだと私は思います。そして、協力とは、そこから始まる他者の苦しみや困難への共感、その開放に向けて必要なものを分かち合う見える部分につながる具体的な行動のことだと思うのです。互いの平和のため、愛が増し加わるために霊の交わりを続けられるよう主の愛を求めて参ります。

2013年9月22日  (過去メッセージのリンク)
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