「祈りは100%かなえられますか?」フィリピ人への手紙44-7

モーセは、奴隷であったイスラエルの人々を導いてエジプトを脱出しました。そして幾多の艱難辛苦をなめてカナンの地を目前にしましたが、そこへ足を踏み入れることができませんでした。モーセも、また周りの人たちも必死に祈ったでありましょう。しかし、その祈りは聞かれませんでした。申命記3248-52

なぜ、そのようなことになったのでしょう。

パウロは、自分にあるトゲを取り除いてくれるよう祈りました。もし、そのとげがなければ、パウロはいかに力強く快適に伝道の活動ができたでありましょうか。コリントⅡ127-10

 しかし、パウロの切なる祈りも聞き届けられませんでした。

当人たちはもちろんのこと、この二人のための多くの人々のとりなしの祈りもあったことでしょう。しかし、結局祈りは聞き入れられなかったのです。

それでは祈りはそんなに意味のないことなのでしょうか。いくら祈っても聞き届けられない祈りがそれほど多くあるなら、私たちの祈りもほとんど聞かれない可能性が多く、意味のないことと言わざるを得ないのでしょうか。

祈りはご利益を願うだけのものではありません。神様に自らの多くのことを願い、他の人のことに関する願いも祈りながら、その祈りの中にあって神様の言葉を聴くそうした時なのではないでしょうか。

モーセはカナンの地へ足を踏み入れることを祈りながら、しかし、留まる事を選びました。

パウロは、自らのとげが取り去られないことを祈りの中から感じ、「自分の弱さを誇りましょう」という結論にたどりつき、そのことに感謝して歩みました。

祈りの結果が100%かなえられようとかなえられまいと、祈っていく中で道が示され、100%の平安が与えられる。それは確実なのであります。

2013年9月8日  (過去メッセージのリンク)
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