「主がともに」 マタイによる福音書1818節〜20

 子どもの頃、コーリー・テン・ブームはクリスチャン一家に育ち、イエス様のことを家族の一員だと確信していたそうです。両親に話すのと同じようにイエス様との語らいは普通のことだったと言います。神様は理屈抜きでの交わりを私たちに求めておられます。イエス様は言われました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(マタイ18:3

 ある人の葬儀で、牧師が故人の評判の良さや素晴らしい経歴について語りました。しかし、次の瞬間、牧師は言いました。「彼の善良な生き方や良い行いは、彼が天国に行くことを保障するものではありません。」そして、パウロの言葉を引用しました。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされているのです。」(ローマ3:23)「良い人」であることは天国に行く条件ではなかったのです。

 イエス様を私たちは日常生活の中に招いているでしょうか?人間関係の軋轢の中で(18:15)、願わずにはいられない事が起きた時に(18:19)イエス様はそれぞれの心の内にあるでしょうか?それどころか、私たちはイエス様抜きに事を進めていないででしょうか?イエス様は「祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」(マタイ6:6)と言われましたが同時に、心を一つ(ギリシャ語で、シンフォネア:交響)にして多様な人々と一致し、集い祈る時、事態が動くことを約束して下さいます。イエス様の十字架の死と復活の後、一同が一つになって集っている所に聖霊が注がれ教会が生まれたように、私たちもどんな願い事でもキリストにあって求めなさいと言ってくださる神様を信頼して祈る時、山が動き始めます。すべてが変わり始めます。(マタイ17:20)

 「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」(ヘブライ13:5,6)。神がともに居てくださるということが重要で、自分に、そして、自分たちにはできない、ということは問題ではないのです。力は弱さの中に完全に働くよう神様はこの世をお創りになっているからです。

2013年8月25日  (過去メッセージのリンク)
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