「たとえそうでなくとも」ダニエル書3:13~18

 紀元前612年、宿敵アッシリアを破った新バビロニアはユダヤも支配下に置き、有能な高官や技術者たちを捕囚として連れ帰り、自国を治めるために同化政策を行いました。日本を含めた近代世界でも同じことが行われて来ました。

「人には心の平和である祈りが必要」

ネブカドネツァル王は当時の中近東地域を支配し、権力を欲しいままにしていました。しかし、「不安」は夢に表れます。そして、その夢の意味を解くことができたのは、ユダヤから連れて来られた少年ダニエルでした。王は、ダニエルの信じる神を恐れ、他の少年たち、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤも重用しました。

「あなたの若い日に造り主を覚えなさい」(コヘレト12:1)とありますが、少年達は彼らの主を知り、真実、誠実に神との祈りの関係に生きることを第一としました。敵国にあっても主なる神を見失わず、与えられた個性を大切にし、心の平安と生活の術とを得たのです。賜物の有無ではなく、賜物に感謝し祈ることが大事です。

「信仰は、願いが聞かれないと思える時にこそ発揮される」

王は、ダニエル達の神を恐れましたが、すぐに忘れ、自分の神を信じるよう国民に強いました。しかし、ハナンヤ達は主に忠実でした。そして、王の怒りを買い、燃える炉に投げ込まれることになりました。彼らは答えました。「わたしたちのお仕えする神は・・必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕え、金の像を拝むこともいたしません。」残念ながら私には彼らのようにできそうにありません。しかし、聖書の言うところの「信仰」とは本来そういうもので、できるできないの問題ではなく、たとえ自分の願う形で願いが実現しなくても、神は最善を成してくださると確信することにあり、平安が伴うのです。

今、日本は経済力や軍事力がもたらす繁栄や平和に目を奪われようとしています。偏った思想信条で一致、同化させようとする空気が漂っています。しかし、たとえ目先の繁栄や平和を見ずとも、私たちは今を感謝し、神の言葉に聞き、与えられている個性が真の繁栄と平和のために用いられるよう祈り生きる責任があるのだと信じます。主イエスにあって地の塩、世の光になりたいと願います。

2013年8月11日  (過去メッセージのリンク)
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