「信じること、畏れる人」詩編25:12~14

 「心の貧しい人々は幸いである。」マタイ福音書5章、イエス様の説教の冒頭ですが驚きを覚えます。心豊かな人は幸いと言われれば納得できますが、イエス様のまなざしは、対極の貧しい(原意では「貧困の極みにある」)人に向かいます。

 本日の聖書の箇所で、ダビデは「主を畏れる人は誰か。」と問い、その人に神が与えてくださる恵みについて語ります。彼は、「主を信じる人は誰か。」とは問いません。世の中に、神を信じると言う人は多いと思います。しかし、神を畏れ、神に従う、と主体的に告白する人は少ないのです。それどころか、私たちは、ともすれば神に従うどころか、神を従えて生きているのかも知れないのです。自分の願望を神に願うばかりでは神と神のわざに出会うことは困難です。神に信頼して祈り、神の思いを探り求める時、神は私たちの近くにおられます。

 「主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望みます。」25:1)、「わたしはいつも主に目を注いでいます。」(25:15) ダビデは人や自分を見ていません。それは、自分が弱く小さく、哀れな者、貧しい者であることを体験的に知り、悔い改めることと、神は真に立ち返れば豊かに赦してくださることを知っていたからです。彼は自分の失敗や罪を隠さず、率直に告白し、聞いて赦してくださる神を仰ぎ望みました。

 「主を畏れる人は誰か。主はその人に選ぶべき道を示されるであろう。」

宗教改革者ルターは、「よい義しい行いが、よい義しい人をつくるのではけっしてなく、よい義しい人がよい義しい行いをする。」と言いました。自分の弱さ、欠け、そして罪を認め受け入れる人を義しい人とルターは言っているのだと思います。神を畏れ、み旨を求める人に神は選ぶべき道を与え、共に働いてくださいます。

 「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブライ12:2)イエス様は、神を恐れず敵対する者たちのために執り成し、父なる神を仰ぎ見つめ十字架に死なれました。弱さ貧しさの中に身を投じられた全能の神の子が、この世の力で殺される。しかし、神はそのイエスを死の中から復活させられました。「心の貧しい人々、神を畏れ神を仰ぎ望む人々に神は天の国をご褒美としてお与えになります。出来事や、人を恐れず、苦難から救ってくださる神を畏れて御ことばに従って参りたいと願います。

2013年7月28日  (過去メッセージのリンク)
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