「主は私の羊飼い」    エゼキエル書34:11~15

 紀元前597年、かろうじて残った南ユダもバビロニアにより占拠されます。バビロニアの王ネブカドネツァルは宝物を奪い、全ての高官、勇士一万人、全ての職人と鍛冶を連れ去り、残されたのは民の中の貧しい者だけでした。バビロン王はユダの王ヨヤキンを連れ去り、ユダにはヨヤキンの叔父、21歳のマタンヤを王とし、ゼデキヤ(主は正義)の名に改名させました。エレミヤは、イスラエルの民が他国により支配され苦しみの中にあるのは、彼らの不信仰のためであり、悔い改めて神に立ち返らせる目的があることを説きました。しかし、愛国主義者の声に負けたゼデキヤはバビロニアに反旗を翻しましたが587年、エルサレムは陥落します。

 エゼキエルは国滅び捕虜として連れて行かれたバビロニアで神の裁きと希望とをイスラエルの民に伝えました。神は、彼らが聞こうと聞くまいと神の言葉を伝えよとエゼキエルに命じられました。旧約聖書では、イスラエルの民を「羊」にたとえましたが、その世話を任されたのは「牧者」としての王や高官、祭司たちです。彼らの心は頑なで、神から遠く離れ、託された民から略奪し、養わず自分自身を養っていると神は糾弾されます(34:8)。ついに、神は牧者を送り、失われた羊を探し、養い世話をさせ、自らが彼らの神となると宣言されます。それは、過去の清算と、回復が神によって始まり、神によって進められることを示します。(エレミヤ29:12)

 「わたしがわたしの群れを養い、憩わせる。」世の中は益々人間を中心にした世界になりつつあるのではないでしょうか?世界の悲惨も神の無力が原因ではなく、むしろ畏れを知らない私たち人間がもたらした結果ではないでしょうか?私たちは今、科学、技術、経済、医療・・どの分野をとっても驚異的な発展を遂げた世界に生きています。しかし、私たちに真の平安はありません。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(新改訳ヨハネ14:27)  「恐怖」や「不安」は魂の障害だと言います。真の羊飼いイエス様に信頼して一歩踏み出す時、私たちは、どんな苦しみの時、困難な所にも神が共にいてくださることを知ります。

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2013年7月21日  (過去メッセージのリンク)
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