「愛することは赦されること」マタイ54348


「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」とイエス様は、伝統的なレビ記19章の解釈、「隣人だけが同胞であり、敵は愛さなくてもよい」との捉え方を批判し新たな解釈を与えられました。「殺してはならない」との戒めもイエス様によれば、兄弟に腹を立てたり、罵ったり、どなったりしただけで人殺しと同じ、いやそれ以上の罪だと言うのです。みだらな思いで異性を見るだけで姦淫しているのだ、いやそれ以上のことをしているのだと語られるのです。イエス様はより厳しく律法を解釈し、それを徹底しようとされたのでしょうか?そうではなく、誰一人として律法を完全に守ることによって「私は正しい」と言える人はいないことを明記させるものだということなのです。人間関係だけでなく、不幸な出来事、理不尽な状況、悲惨を私たちは正しく解釈することはできないということでもあります。



 「しかし、わたしは言っておく」と、イエス様はそのような許せない人や理解不能な出来事を前に立ちすくむ私たちに寄り添いながら、光の希望を、恵みの雨を与え続けてくださっています。不完全で限界のある私たちに希望の種、前向きな種を蒔き続けることを望んでおられます。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。」信仰が強いから救われるのでもなく、神に従ったから報われるのでもありません。先に、神の慈しみ憐れみがあり、働きのない不信仰な者さえ「正しい者」としてくださる神を信じる者を「わたしの子」「完全な者」と神は呼ばれるのです。



 「愛することは許すこと」と私は思っていました。しかし、その前に、私自身が神の慈しみと憐れみの中に置かれていることを、イエス様のゲツセマネの祈りと十字架の苦しみとを通して知りました。私は、許す前に赦された存在なのです。パウロは言います。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。・・・わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5:6)そして、その愛は、信じない者にも信じる者にも恵みとして注がれているのです。そこから神への応答が始められるのです。

2013年7月7日  (過去メッセージのリンク)
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