御手の中で」    エレミヤ書18:1~6

「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。」18:6



 この言葉は、直接的には神に逆らうイスラエルの民への警告の言葉です。陶器師である神は、その手の中にある粘土の頑なさゆえに災いを備え、災いを計画していると告げられます。そして、神に立ち返るならばそれを思いとどまると言われるのです。神は民や王国を抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えることをされる神です。そこで間違ってはならないのは、神は創造の神であるということです。裏切り逆らい、滅びていく民を御手をもって作り変えることのできる神だということです。その動機はもはや人間にはなく、一方的な義の神の側にあります。



 人は自分の力では変われない。異論もあるでしょう。「クシュ人は皮膚を、豹はまだらの皮を変ええようか。」(1323)とありますが、どれほど努力しても神の前に私たちのうわべは変え得ても本質、性質、内面を変えることはできません。しかし、神の御子キリストの贖いを通して、私たちは旧い性質を十字架につけ、神の聖さに与り神の子とされることができます。神は人を変えることができます。神は一人子イエスを私たちの罪の身代わりとして「死」に渡し、罪を赦し、災いを思い直し、祝福に変えてくださいました。



 粘土の柔らかさは、神に対する信頼と言えます。パウロは言います。「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」(ローマ4:5) 不信仰で神に従わなかったイスラエルの民に、今、与えられようとしている救いは、限りない神の愛を根拠とした信仰だったのです。自分が間違っていたと感じたら、ただちに神に立ち返る。悔い改めるだけで、神は私たちを作り変えてくださると言うのです。大切なのは、粘土を御手の中に抱いてくださっている陶工師、神様です。私たちは、その御手のわざを信じてゆだね生きる恵みを与えられているのです。神は災いではなく、将来と希望とを計画しておられ、惨禍の苦しみの中に共に立ち、祝福に変える力ある神なのです。

2013年6月30日  (過去メッセージのリンク)
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