「我が神、我が神」    マルコによる福音書12:18~27

 長男とその兄弟が次々に死に、その長男の妻が掟に従って七人の兄弟の妻となったら、復活の時、彼女は誰の妻か?とのサドカイ人の質問は、私たちにとっても馬鹿げた質問に聞こえます。しかし、笑えません。死んだらどうなるのか?天国の愛する人は何歳頃の姿をしているのか?生前の関係はどうなるのか・・。

イエス様の答えは、「あなたたちは聖書も神の力も知らない。思い違いをしている。」でした。「思い違い」とは迷った道に導かれるという意味の言葉です。私たちは死後のことをこの世の延長線上で捕らえてしまいます。そして、直面する問題も同じ次元で受け止めがちです。大切なのは、天国がどんな所か、死んだ後、人はどうなるのかではなく、神と神の力、そして、聖書の言葉の力を知ることです。

 最近、歳をとってきたと感じたり、病気をしたりしながら思うことは、「それらのことに意味はあるのだろうか?」ということです。歳をとることもさることながら、病気に関して医者は私に、「遺伝で、体質ですね。」とおっしゃいます。今もそうですが、そのうち、「加齢です。」でひと括りにされてしまいそうです。健康には気をつけ、神様に従って生きようとして来たのにどうして現実はこうなんですか?と神様に問い合わせのメールを送りたい気持ちです。健康のことだけでなく、世の中、腑に落ちないことばかりです。何故、震災で多くの人々が犠牲となりその倍以上も悲しみを負った人々がいるのか?何故、罪もない人たちが様々な理由で苦しんでいるのか?生まれついて障害に生きる人、名も知らぬ病気で辛い人生を歩んでいる人、そこに何の意味があるのだろうと・・。

 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか?」(マルコ15:34)主イエスの十字架上の最後の言葉です。それは、この世の不条理、理不尽な出来事に直面し、神の思いを計りきれずに苦しむ人以上の叫びではないでしょうか?しかし、神はその叫びを超えてイエスを死者の中から復活させられました。

 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」 神は死んだ者のことは知らない、と言うのではなく、死さえ支配される神であるなら、生きている者にとってはそれ以上の神であるということです。意味不明の状況や理解しがたいことがあっても、神には理由があるということです。復活の希望があるということです。そして、私たちにとって大事なことは、主イエスを信じ、共におられる神と生きることです。

<

2013年6月23日  (過去メッセージのリンク)
毎週礼拝メッセージを更新しています。(過去メッセージのリンク)