「取るに足りないもの」   イザヤ 43:4 

「わたしの目には,あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」とイザヤ43章4節に書かれていますが、そこにある「あなた」とは誰のことでしょうか。

 先日のワールドカップ最終予選で、試合終了直前にペナルティーキックを決めた本田選手は多くのサポーターからそのように見られたかもしれません。野球の試合でサヨナラホームランを打ってくれた選手もファンからはそのように見られるでしょう。

甲子園に出場するような高校のチームには100人を超す部員がいることが多いのですが、公式試合に一度もベンチ入りすることもなく3年間を過ごす生徒も多くいます。その部員にとっては試合に出られない以上、サヨナラホームランの可能性はゼロなのです。そうなるとこの言葉はその部員には該当しない言葉のようにも思えますし、もしかしたら単にそうした日の目を見ない人を励ますための慰めの言葉に聞こえてくるのです。

 新生讃美歌には681曲の讃美歌が掲載されていますが、私たちはその全曲を歌うのでしょうか。同じ讃美歌を何回も歌いますが、一度も歌わない讃美歌が何曲もあります。そのように私たちの周りには、目立たない、気がついてもらえない、用いられることの少ない、イヤ全くないような人やモノがたくさんいるのです。

 私たちは、自分を卑下した言葉を多く使います。「能力の無い自分」「体の衰えた自分」「体の具合の悪さ」等々、しかしその言葉が出る時には、周りからのそれを補ってくれる励ましや慰めの言葉を待っているのです。

 しかし、その辛さが極限に達した時、私たちはそれを言葉にすらできません。周りの人に軽口をたたいて、弱さを云うことはできないのです。

けれども、私たちは本当に自分の弱さを感じた時、人間の力の限界を感じた時、絶対的な者の前で打ち砕かれた時初めて、この「あなたは高価で尊い」というみ言葉が心に沁み込んでくるのです。

「だからキリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(略)なぜなら、私は弱いときにこそ強いからです。」コリント信徒への手紙二129-10                 


 飯塚道夫

2013年6月9日  (過去メッセージのリンク)
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