「私を立ち上がらせたお方」 使徒言行録3110

毎日、神殿の「美しい門」のところに運ばれて、そこに置いてもらって、通りがかる人に施しを乞うことで生活をしてきたひとりの人が、ペテロとヨハネに出会います。それは、この人が二人を見て施しを乞うことから始まりました。求めに応じて、弟子の二人は彼をじっと見て、こう言います。「わたしたちを見なさい!」。

今日の箇所では、それぞれ違った単語が用いられながら、「見る」ということが強調されています。その上で、ペトロはこの人に「わたしたちのことを見てごらんなさい」という呼びかけます。

自分のことを「見てごらんなさい」と言って、あたかもお手本のようにして指差せる人がいるでしょうか?真面目に考えれば、どこかで躊躇します。だとすれば、このときのペトロは、よほど自信に満ちていたか、あるいは傲慢になっていた、というのでしょうか。

いいえ、ペトロが彼に伝えたかったのは、門のところに座っている彼と自分を比較しながら、「あなたも、私を見習ってちゃんと生活しなさい」などと言うことではありませんでした。

実は、ペトロには、主イエスの弟子として生きるに値しない、深い挫折と裏切りの体験があったのです。主を見捨てて逃げ去った罪の過去が、今もなお重くのしかかり、その傷は、今もなお消えて無くならずにあったのです。にもかかわらず、ペテロは、今、主イエスの弟子として、主イエスを証しするために、ここに立っています。

こんなふうなペトロが、彼に伝えたかったのは、「私がこんなふうに生きられるようになったのは、ただただイエス・キリストという方によるのです」ということでした。それゆえに、「こうして立っている私を、見てください!」と呼びかけたのでした。

教会とは、こんなふうに立っている自分をさらすように示して、「わたしたちを見てごらんなさい!」と証ししていく人々なのでしょう。

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2013年5月12日  (過去メッセージのリンク)
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