「差し伸べる手」ローマの信徒への手紙101417

 使徒パウロはキリスト者となる前、神に義とされ聖とされるために律法を守るべきものと信じ、それを守れると信じて生きていました。そこに、イエスの死後、守れぬ罪人こそ義とされ救われると説くキリスト教に出会い、異端の教えと信じてキリスト者を迫害しました。また、使徒たちにさえ律法遵守の教えはまだ残っていました。

 しかし、彼はシリアのダマスコにあるクリスチャン迫害の途上、十字架に死んだはずのイエス・キリストに遭遇し、その福音を宣べ伝える者の「足」となりました。まだ会ったことのないローマのクリスチャンに向け、当時のクリスチャンが信じていた福音、すなわち「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」(ローマ3:28)救いから、「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められる」(4:5)として、神の慈しみと憐れみに徹底的に立った救いの福音を説きました。父なる神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」方であること、イエスこそが業と言葉によってそのことを現したがゆえにキリストであると彼は主張したのです。

 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聴くことによって始まる」(10:17)とパウロは語ります。キリスト御自身の言葉由来とも取れますが、キリストについてのメッセージ、説教に始まる信仰とも言えます。イスラエルの民は聞いたことがなかったかと言うと、神は「求めなかった者にも、不従順で反抗する民にも、一日中手を差し伸べた。」と言われます。「良い知らせを伝える者の足はなんと美しいことか」とパウロは賞賛し、差し伸べる神の手にキリストの犠牲の愛を見ています。「折が良くても悪くても」伝えるキリストの愛の福音に私たちは生かされます。

2013年4月21日  (過去メッセージのリンク)
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