「追い掛ける愛」 フィレモンへの手紙1~3

 「この手紙が書かれた事情ですが、この手紙の受取人「フィレモン」の所で働いていた「オネシモ」(10)が、詳細は不明ですが、主人であるフィレモンに対して何か悪さをしたようです(18‾19)。それで、そこに居れなくなってオネシモは逃亡します。逃げ切れなくなったのか、それとも最初からそのように考えていたのか分かりませんが、彼は、この手紙の差出人である「パウロ」の所に行きます。
 パウロは、フィレモンの信仰の生みの親、育ての親なのです。そんなことで、オネシモは、パウロのことを以前から知っていたようです。パウロの所に留まるうちにオネシモはキリストの救いに与り、更に、有用な主の働き人になるのです。しかし、いつまでもオネシモを留め置くことは良くないと思ったパウロは、主人のオネシモに返すに当たって、執り成しの手紙を認めたのです。それか本書です。従って、この手紙の内容は、推薦状・保証書・依頼書で、個人的な書状なのです。
 そのような個人的な手紙を教会の正典の一部に加えると言うことに疑問も反対もあったのです。除くべきであるという強硬意見も、嘗てはあったのです。それなのに、どうしてこのような僅か1章25節の短い手紙が、正典一部に加えられているのでしょうか。それはパウロが全存在を賭して逃亡奴隷オネシモに注いだ豊かな愛は、キリストを通して示された神の愛に通じるからです。神の愛は、愛される価値も資格もない者にも、途切れることもなく追い続ける愛なのです。
 「学芸会 ぼくは脇役だけれども ぼくの母さん ぼくを見ている」(小林龍太)
 「学芸会に 端役などなし 父母の ビデオは君を 君だけを追う」(杜野 泉)
                                        (田中仁一郎)

2013年4月14日  (過去メッセージのリンク)
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