「落ち着いた生活」 テサロニケの信徒への手紙一51224

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」復活し、天に上げられたイエス様がその言葉通り再び来られる(マタイ24:30)と信じたテサロニケの人々は、それを待たず死んでしまった兄弟姉妹の救いの問題や、世の終わりが来ると誤解し怠惰な生活に陥った人々の問題を抱えていました。形は違え、今を生きる私たちも似たような問題を抱えています。「死んだらどうなるのか」「何故、何のために生きているのか」自分の命と死について考えると解らないことだらけです。しかし、パウロはそんなテサロニケの人々に「いつも喜べ、絶えず祈れ、全部を感謝しなさい」と命令します。岩波訳では、「なぜならばそれが、あなたがたに対する、キリスト・イエスにおける神の意思だからである。」と訳しています。私には、パウロのこの命令を完全に守ることはできませんが、その言葉に信頼し従おうとする時、目の前に展開している出来事に自分の思いとは違う答えや意味があることに気が付かされて来ました。目に見えぬ神は、苦難と試練を潜り抜け、死を味わったキリストを通して、神は目に見える私たちの困難な出来事にその思いを示されるのだと言えます。キリスト・イエスにあって、パウロのこの命令を真に受ける時、喜べない状況、祈れない辛い経験、感謝するどころか神を呪いたくなるような出来事の中に、キリストが受けられた不条理な十字架とその死がカメラのピントを合わせるように、ラジオの周波数を合わせるように重なって来るのです。そして、それを超えて与えられた復活の命に焦点が合うのです。

パウロはその前に、「兄弟愛を発揮し、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くようにつとめなさい。」(4:11)と勧めます。英語訳(NKJ)では、「静かな生活をし、自分の生活に専念し、自分の手で相応に働きなさい。」と言います。キリストにあって、神にこよなく愛されている者として、その信頼関係に生きることが大切です。神は、私たちの現実問題に共に向き合い、勝利して下さるのですから。

2013年4月7日  (過去メッセージのリンク)
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