見よ、すべてが新しくなった 2コリント5:17~21

 今日、わたしたちの教会は主イエスの甦りと新会堂竣工を祝って礼拝を捧げます。もし人が、建物を建てる時、それを建てるに十分な計画と熱意とを持ち、必要な準備をすることができたなら、その建物は「既に建った」と言っても過言ではないでしょう。どんな障害や困難もその決心に比べたら比較になりません。しかし、教会堂の建築は人の意思や力によるものではありません。「主御自身が建ててくださるのでなければ家を建てる人の労苦はむなしい。」(詩編127:1)との言葉通り、教会は神様の意思、目的、導きによって建てられるのです。考え方や価値観の違う者たちが、主イエスによって罪赦され新たに作り変えられた者として、一つとなり自らを捧げるように自分に与えられた神の恵みを捧げ委ねて組み立てられていくものなのです。それは、教会が「神なる主のためのもの」だからです。そこに、主なる神を信じて捧げられた献金・教会債、全国の諸教会の信任を得た回転資金貸与、捧げられた祈り、そして建築会社の尽力が生きて尊く用いられ、実を結んで行くのです。

この喜びの日、私たちはまたイースターの喜びに与ります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6)と、弱さの極みに生き、恥辱を受けた先に復活させられたイエス様にパウロは復活の希望を見出しました。神の計画と目的は、人間の力によってではなく、神の慈しみと憐れみによって人が救われることです。

「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(12:9)と、パウロは願っても叶えられない祈りにも、不条理と思える苦しみや意味の解らない悲しみにも神は共にいてくださり、その神との新しい信頼関係に私たちが生きることを願っているのです。「見よ、すべてが新しい」それは、十字架に死に、復活されたイエス様を人生の中心に置くことよって起こる新しくされた人間の創造のわざなのです。

2013年3月31日  (過去メッセージのリンク)
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