「十字架の言葉」 マルコによる福音書152127

世の中には運の悪い人がいるものです。現在の北アフリカにあるリビアからエルサレムに巡礼に来たと思われるキレネ人シモンは「ドロローサ(嘆きの道)」を十字架を負わされて歩むイエス様に遭遇します。兵士たちはイエスの十字架を彼に無理やり担がせました。夜を徹しての尋問、鞭打ち、侮辱に疲れ果て深い傷を負ったイエス様には無理だったのでしょう。しかも冤罪であるにも関わらず、イエス様は黙り続け何もお答えになりませんでした。総督ピラトは人々の満足を得ようと犯罪者バラバをイエスの代わりに釈放し、弟子たちは逃げ去り、ペトロはイエスを捨てました。誰もが的外れな方向に進んで行きました。

「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」2コリ521パウロは、人は善い行いによっては救われず、ひとり子を捨ててさえ無きにも等しく、救われる資格のない人を憐れみ慈しむ神を信じることによって救われると言うのです。イエス様の十字架上の叫びは、御子であるご自身を捨て、相応しくない者たちを選ばれた神への絶望の叫びであったに違いありません。復活の力は、その苦難を通さなければ及び得ないものだったのだと思います。

理不尽と思える出来事、運命として受け止めなければ耐えられないような境遇に「罪の赦し」の福音は届くのでしょうか?キレネ人シモンは、無理やりイエスの十字架を負わされました。私たちの間にも無理やり負わされたように思える不条理な出来事や納得できない境遇に生きる人がいないでしょうか?何が起きても「主の御心」と受け止めるにはあまりにも過酷なのが現実ではないでしょうか?しかし、むしろそのような現実に、神は人となり人間と同じ者になられたとパウロは証言します。そして、へりくだり、死に至るまで従順であったが故に神はキリストを高く上げられたと語ります。(コリント一26)十字架の苦しみと叫びの中に神はおられ、だからこそその弱さと苦難の中にある人、罪に苦しむ人に、イエスがそうであったように復活の希望と力をお与えになるのだと思うのです。

2013年3月24日  (過去メッセージのリンク)
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