「今は見える」 ヨハネ福音書9:1~7

主イエスは、私たちの罪のために十字架にかかって死に、三日目の朝甦り、復活された。それがキリスト教にとっての大事な救いの原理、主の栄光として受け継がれています。しかし、M.ルターは、十字架を贖罪や栄光に直接結び付けて捕らえるのではなく、十字架は人間の弱さや愚かさでもあり、苦しみ弱り果て、絶叫して死んでいかれたキリストをこそ神は復活させられたのだと言います。

本日の聖書の箇所は、イエス様が生まれつきの盲人を癒されたところです。ユダヤの民にとって身体的に障害や病気がある人は罪人と見なされました。神の救いや報いから程遠いと思われていた人々で、除け者のように社会の底辺、隅っこで生きるしかありませんでした。今でこそ社会では「障害」と「健常」との間にある偏見や差別の壁を取り除く働きが続けられていますが、全てが改善された訳ではありません。また、内なる「因果応報」の原理が心の社会から拭い去られたとは思えません。神の前に平等とは何かということも問われています。

東日本大震災から明日で満2年となります。自然の営みの中に人間は小さく弱い存在です。なのに私たちは自分たちで何でもコントロールできるかのように、ある意味横暴に生きています。しかし、私たちが私たちの幸せの計画や豊かで快適な生活を中断させる災害や試練に直面した時に知るのは、私たちの悲惨さやみじめさ、人間中心に捉えてきた人間性や価値観の脆さではないでしょうか?

イエスは言われました。この人が生まれつき目が見えないのは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」そこには、肉の弱さの復権があります。それは、神が天地創造をされた時に成し遂げられた「極めて良い(はなはだ良い)」存在の回復です。十字架は、私たちの人生の不条理、無意味としか思えない苦しみ、悲惨な出来事に生きざるをえない私たちの現実です。後に弱さのゆえに十字架に死に、復活させられたキリストに癒されたこの盲人のように、キリストに与る者、キリストが見える者となりたいものです。震災の被災者の方々の上に神の慰めと神の業が現れますように。

2013年3月10日  (過去メッセージのリンク)
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